2018
09.07

2018年9月7日 行ってきた

らかす日誌

5,6日の両日、会津若松に行ってきた。このページのアイキャッチ画像はその証拠写真である。鶴ヶ城の天守にいる私を、旅に同行したO氏が撮ったものだ。私を姿をお認めいただけるだろうか?

と書きながら、

「これじゃあ、私の生写真を出しても、誰も私の姿を認識することは出来ないはずだ」

という判断で使っている写真ではあるのだが……。

桐生から高速を使って、片道約250km.。途中、那須で高速を降りて早めの昼食を採ったため、会津若松に入ったのは午後2時を過ぎていた。会津若松を訪れるのはもう3度目(4度目だったか?)というO氏の案内に従い、まず白虎隊が自刃した飯盛山に向かう。登り口には見上げるほどの階段が続き、私の腰は引けたが、

「大丈夫だから」

とスロープコンベア(というのだそうだ)の乗車券を渡された。ゴム製のエスカレーターと言ったらよかろうか。そんな「動く山道」で山頂のすぐ近くまでいけるのだそうだ。
そりゃそうだよなあ。今や観光客といえばジジババばかり(人のことはだんだんいえない年齢になってきたが……)。そんなジジババがこの階段を見たらスタコラサッサときびすを返すに決まっている。飯盛山に登らずに引き返されたのでは、多分、土産物のの売り上げも違ってくる。ここはひとつ、設備投資をしてジジババを何とか山の上まで運んでいこうという経営戦略であろう。

ま、私もその例に従って、楽々と山頂近くまで運ばれた。ところが降りてみると、まだ階段がある。ざっと20段か。

「こんなことなら、スロープコンベアなるものをもっと上までつなげてくれればいいのに」

と思ったのは私だけではないはずだ。

そんな思いをして登った飯盛山ではあったが、ここで白虎隊の19人が腹を切った、といわれても、たいした感慨もない。O氏は、

「ここから鶴ヶ城から上がる煙が見えて、『お城も落城した。かくなる上は』って切腹したんだよね。でも、まだ城は落ちていなかった。今みたいに携帯電話があったら城の様子も分かって19人は死なずにすんだのにねえ」

それは歴史解説として成り立っておりませんぞ!

私はすでにして汗まみれである。
そもそも、こんなところに来て何故にシャツの表まで染み出すほどの汗をかかねばならぬ? 私は観光に来たのではない。観光地などにには何の関心もない。私が会津若松に来てみたかったのは明治維新の裏面史に惹かれ、ただただ会津若松の地を踏んでみたかったこと、会津若松に生き続ける会津っぽの顔を見ていたかったことに尽きる。そんじょそこらの観光客と同じ行動をとる気は全くないのである!

と思いながら、何故か我々が次に目指したのは鶴ヶ城であった。官軍の猛攻撃を受けて白旗を掲げるまで、果敢に戦い抜いた城である。それは昔の話で、胃までは単なる観光地。やっぱり、観光地巡りをしなければ時間がつぶせない……。

天守が小さく、何となくバランスを欠いた城であった。中にはいってがっかりしたのは、これ、見るからに「再建もの」である。ネットで調べると、1965年、鉄筋コンクリートで再建されたとある。城郭を尋ねて、近代建築を見せられても仕方がない。中にはいると、床も壁も木は使われておらず、全くのビルディング。つや消しであった。かつて勤務した岐阜の金華山にある岐阜城は、ちゃんと木の床が張ってあったのだが。

この地で、とうとう私のシャツは絞れば水がしたたるほど濡れ鼠となった。やむなくホテルに向かい、部屋に入ってシャワーを浴びて下着からすべて取り替える。汗みどろになったシャツと下着にはシャワーでお湯をぶっかけ、そのまま部屋に干した。これ、O氏のアドバイスである。
さっぱりして、夕食のため外出。行き先はO氏お薦めの居酒屋であった。

日本酒の取りそろえが優れた店であった。私の舌には、あの「港屋藤助」をしのぐものはなかったが、いい酒には違いない。いろいろな酒を1合ずつ注文して何本に至ったか?
ホテルに戻ってバーラウンジでワインを1パイ飲んだあとは、部屋で爆睡した私であった。

昨日は造り酒屋「末廣」を訪問。酒蔵を見学した。
なんでも、かの野口英世の恩師と縁続きの家だそうで、野口博士自筆の学がかかっていた。なるほど、会津若松は奥深い。
O氏は試飲。

「これ、美味い!」

と複数の日本酒をお買い上げになる。運転手である私は試飲せず。硝子に漆を施したぐい飲みを購入した。1個1800円。会津若松は上杉鷹山の産業政策で漆の生産に力を入れた歴史がある。その歴史が今も産業として生きているのである。

あとは裏磐梯で美術館を訪れ、高速のサービスエリアで昼食をすませて午後4時頃帰宅した。

さて、会津若松の人口は約12万5000人。桐生とたいした違いはない。違いがあるのは町の活気である。毎年300万人から400万人が訪れる観光地であることも手伝って、町の建物が美しい。商店街のアーケードも立派で、小じゃれた飲食店も数多い。それを支える経済力がこの町にはあるということだろう。桐生は会津若松と並び立てるような町になり得るか。

そんな課題も抱えて戻ってきた私であった。

さて、いずれにしても会津若松の地を踏んだ。会津っぽの顔も見た。それで旅の目的は達した私であった。