2018
11.11

2018年11月11日 読書

らかす日誌

読書の秋だから、というわけではないのだが、最近、固い本を読み続けている。
きっかけは、何かで(この「何か」が思い出せないのが、最近の私である)立花隆の「天皇と東大」を知ったことだった。どうした弾みか、この本を読みたくなった。

立花隆の本をまとめて読んだ時期がある。読み始めたのは「田中角栄の研究」だったか、「日本共産党の研究」だったか、あるは「中核VS革マル」だったか、あやふやだが、これらに加え、「宇宙からの帰還」「猿学の現在」「アメリカジャーナリズム報告」など、かなりの本を読みあさった。その後、憑き物が落ちたように彼の本を読まなくなっていて、「天皇と東大」は久々に手にした彼の本だった。

面白い。天皇と東大と言いながら、天皇は余り登場せず、明治以来の日本の激動の中で、東大と東大の研究者たちが果たしてきた役割、そこに覆い被さった天皇制の重み、時流におもねる研究者、抵抗を試みる研究者、天皇機関説事件あたりからの社会の変節など、明治以降の歴史を表から裏から資料を基に紡ぎ出し、読んで飽きない。

とはいえ、今日はこの本を書こうというのではない。
この本はもともと、文藝春秋に連載された連載をまとめたものである。読み始めてすぐ、その連載が2つに分けられ、この本は5回目以降をまとめたものだとあった。4回目までは東大を中心に、当時盛んに言われていた

「大学生のレベルが下がった」

「分数の計算ができない理系の学生が登場した

などの知的某国論に、東大を中心にしながら実証的に迫る予定だったとある。ところが、途中まで書いていて筆者の関心の向きが変わり、5回目からは近代史に取り組み始めてこの本になった。

そして、4回目までの分は、

東大生はバカになったか(文春文庫)

というタイトルで別の本になっているとあった。であれば、これも買わずばなるまい、というわけで買った「バカになったか」が今日のテーマである。

だが、この本を論じようというのではない。そんなことは私に力に余る。この場では、この本のさわりを紹介して、皆様にこの本をお薦めしいようというのである。

さて、東大生はバカになったのか。

立花さんは東大経済学部の講師を務められたことがある。統一テーマは「自然と文化—自然と人間」で、立花さんは「南米に学ぶ」という講義を担当された。
1回目の講義の冒頭、期末試験の問題を公開された。まだ始まってもいない講義の期末試験の問題を明かすというのは異例中の異例だが、立花さんが学生だったときの想い出から思いついた出題形式だという。その理由にはここでは深入りしない。
そのテーマは、

「自分で自由に論題を設定し,自由に論ぜよ」

だった。別に俺の講義を聴かなくてもいいよ。聞いても記憶する必要はない。とにかく、いまの君が一番興味を持っていることについて論じてくれ、というわけである。

期末試験が終わると、126の答案が届いた。教室に出てきていた学生の数よりはるかに多い。授業に出てこない学生も立花さんの試験を受けたわけだ。立花さんは余りの量にうんざりしながら採点を始めた。

読み始めて、立花さんは驚いた。

「熱帯林が採される」(伐採)

「アルミニウム製のはしを提携する」(携帯)

「何らかの対策をじる」(講じる)

「全世界が一帯となって」(一体)

現代階においては」(現段階)

「理性をフルに発する」(発揮)

「自然が威を奮う」(猛威)

「熱帯雨林に必敵する」(匹敵)

「中東での地域争」(紛争)

「質保存の法則」(質量)

「先進国の工害問題」(公害)

「環境の然」(保全)

「発展をげる」(遂げる)

順明(単純明快)

「自然破壊と自然の再(再生)

「公害病訴(訴訟)

「狂的な行い」(狂信的)

「心の反(反映)

「順性がある」(順応性)

「医師を養する」(養成)

「技術導入の果」(結果)

「大学入学者の選(選考)

「自由化路(路線)

「学問をする機(機会)

「日本からが消えていく」(緑)

「消な仕事」(消耗)

「興味や心を持つ」(関心)

「自然環境にはねる」(はね返る)

「自分の意見の正性」(正当性)

「ローマ、ギリシア方のデータ」(双方)

「これからの世界ですべきこと」(為す)

意的に創造する」(恣意的)

「実をあげている」(実効)

「多様な商品(商品群)

「個人的な指向に合わせる」(嗜好)

「多国籍軍の編(編成)

「インフレ懸(懸念)

問を持つ」(疑問)

「化石料の使用」(燃料)

「国際社会を大きくえた視点」(捉えた)

「弱肉強の世界」(強食)

答案に出てきた誤字のホンの一部だという。中身を見ると、どうやらパソコンのワープロで作った文章ではなく、手書きの文章らしい。そうでなくては間違いようがない間違いが多々あるからである。まあ、中には

「あ、それ、俺も間違うかも」

と思うものがないわけではないが、これが東大経済学部の学生の間違いだとすると、やっぱり東大生はバカになった?
ちなみに、あなたは一読して直ちに間違いに気がつきましたか?

さらに、である。読んで理解不可能な文章がたくさんあったという。

「そこで私が考えた、自然の恩恵への報いとは、人間の死である。人間は死後、霧散霧消して昇天する。そこで雨と交じって再び降天するのである。その雨こそ、植物を育てる水分であり、天地を潤す水分である。死という、ある種、肉体の不可避的状況が、再生産のシステムを導くのである。人間の死は、このようにして初めて、完全な意味で自然に恩返し出来るのであり、一人一人の人間と自然との関係が純化されるのである」

立花さんのコメント:何というバカげた結論であろうか。

「人間の増加による食料問題、エネルギー問題に対応する策は、その使用を減らす以外ない。しかし先進諸国ではエネルギーを相変わらず大量消費している。その結果がアフリカでの飢餓である。悪意を持たれることを恐れずに言うと、この何十万、何百万の餓死は人類滅亡の歯止めの一つとして役にたっているとも考えられるのである。また、先進諸国での環境問題も人口減少に役立っているのである」

私のコメント:だったら、いまの暮らしを続けることが最善なのだね?

が、この学生君、まだ書き続けていた。

「しかし我々は、人間として生存へ最大限努力すべきである。行動しないと、何も改善されないのである。努力の余地はその意味で残されている。我々のまだ知らない力が偶然我々の内面にあるのかもしれない。行動しなければならないのである」

私:……

「(現在の地球は、もはや助からない末期ガンのようなものなので)そこで、いまの科学技術を結集して,今の環境状態の現状維持を図り、この末期ガン患者『地球』の延命につとめ、滅亡という最悪の事態に際し、人類全体がその事態に軟着陸出来る道を模索して欲しいと私は考えるのである」

立花さんのコメント:あきらめが早すぎないか?

「(自然と人間の関係は対立か,それとも調和なのか)現段階においては対立の方がはるかに現実に近いであろう。今は文化を自然に迎合させる時が来たといっているが、文化だけを考え、多方面への悪影響を考えなければ、文化は限りなくといってよい程発展し続けるであろう。現に、現在まで様々な多くのものを犠牲にしてきた。人間と自然の完全な調和などは有り得えないといえるだろう」

立花さんのコメント:私はこの文章がぜんぜん理解出来なかった。

「昔から人間は、自然界における物事をヒントに,実験を重ね、試行錯誤を繰り返し、科学技術を発展させてきた。原爆も作った。水爆も作った。中性子爆弾も作った。すべて自然の模倣である。しかし、これらは、基である自然を,地球を、人間を破壊しうる力を持っている。一担作られたもの、発明されてものは必ず使用されるであろう。アインシュタインも嘆いていたが、そして、自然という偉大なる神を破壊してしまうであろう。あるいは、自然により我々人間社会は破滅させられるかもしれない。病気一つをとっても、昔は、けっかくは死の病であったが今ではたいした病気ではない。しかし、けっかくよりも恐ろしい不治の病が続々と現れている」

私のコメント:あなた、東大生? いや、そもそも大学というところによく入れたね。東大の入学試験って、そんなにやさしかったっけ?

『従来、近代以前は自然と人間は調和していたが、近代西洋主義は自然と人間を対立させ、その結果、物的な経済成長のみが追及され、自然はないがしろにされてしまったというような自然、人間の対立という議論がよく聞かれる。しかしここには大きな誤りがあるように思われる。というのは、人間も自然の一部であるからである。ナイフで木が切れるのはナイフも木も同じ物質であるからであり,人間が自然に働きかけられるのは人間も自然だからである。全く単順明解なことであるが、これこそ西洋近代科学の解明した最も重大で基本的な事実であり……」

立花さんのコメント:私にはこの人のいう単順明解なナイフと木の理屈がまるで理解出来ない。

「私は漫画が好きなので“漫画の存在意義とその現状”といういかにも東大生らしい論題で議論してみる」

と始まった文章は

「言葉をうまく上手に使うということが頭が良いということなのだ。だから言葉を使わずに表現する漫画は俗悪なのだろう。だが言葉を使う良い『文化』に対して、それを使わない俗悪な『文化』があってもいいし、また人間の可能性(言葉を使う文化は行きづまっているらしいから)ということからも存在意義はあるのだ」

私のコメント:この方は「俗悪」な文化にどっぷり浸かっているらしい。なにしろ、言葉がちゃんと使えていない。

「(自分の三角関係を抽象的に書いて)しかし、私が唯一分かる事は,結局人間はきれい事を並べても自分自身に対してしか本当にやさしくなれない、という事だ。今回の恋愛では三人が三人とも相手を思いやるようなフリをして、それは実際は自らを幸せにするための戦略であって、本来は自分の事しか考えていないのである。何とも悲しい様で当然のことである」

私のコメント:読んだ私の方が悲しくなってしまった。

「人間の生殖行為について」

という答案はこうだ。

「セックスの際のエクスタシーに関して、人間はチンパンジーの五倍以上の快感を得ているらしいので、人間は自分のいやらしさに赤面して、隠れてセックスをするのではないか……と思う。だがこれはあくまで、私の想像であり、全く科学的根拠はない」

「我々は他の動物と違って本能的に種の最適規模を知らないのか、もしくは知っていたとしてもエクスタシーが忘れられない程助平なので発情してしまうのである。/現在世界の人口は増え続け、このまま、人口の許容範囲を越えてしまって人類が絶滅したならば、その原因は人間のセックス好き、つまり”助平”にあると考えるのはいささか論理が飛躍しすぎているだろうか?」

立花さんの評:答案としてはいただけないが、エッセイとしてはなかなかのでき。

私のコメント:論理の飛躍どころの話ではないと思うが。これ、この学生の「ヰタ・セクスアリス」かも。

無論、こんな答案ばかりではなく、1割は極めて優秀で、2割がまあまあの出来だったそうだ。続く4割は「凡庸だが誤りは少ない」とあるから、このようなとんでも答案は3割ほどもあったわけだ。

立花さんは最下位1割は「まぐれで」東大に入った連中だろうというが、そうかな? 

何でも、開成中学は入学と同時に「東大専門」の塾に通うように生徒を指導するらしい。そこで教え込まれるのは、いまのところ「正しい」とされている知識をひたすら頭に詰め込むテクニックである。それが東大の赤門をくぐる最短コースだというのだが、子供たちは開成中学に入るために同じような塾に通ってきた。つまり、小学校の4年生頃から高校3年まで、自分の頭絵考える必要を全く感じない、自分の頭で考え始めたら、東大の赤門の扉が閉まってしまうぞ、とひたすら指導されてきたわけだ。
こんなおかしな文章を書いて平然としているのは、自分の頭で考える時間をほとんどとらずに大学生になった連中ではないか、と私は邪推するのである。

おっと、この本の一番面白い(私にとって)を抜粋しただけの文章になってしまった。もちろん、この本にはもっとまともなこともたくさん書かれている。大学生の学力が落ちたのは、文部科学省の無責任な政策に最大の責任があるという主張は多くの証拠で固められて頷けるし、現代の学生に必要な「教養」とは何か、も樹状図で示されていいる。
もっとも、立花さんのいう教養を身につけようと思ったら、まあ、時間がいくらあっても足りないほど本を読まねばならず、

「ああ、とうとう私は無教養のまま棺桶に入るのであるか」

と絶望感に駆られることになりかねないのだが。

申し添えておけば、普段は全く書籍に関心をお持ちでない我が妻女殿が、本当に珍しくこの本を手に取られ(私が勧めたのではあるが)、読了された。読了して

「面白かった!」

とおっしゃった。さて、妻女殿が1冊の本を読み終えられたのは、私と結婚してこれが何冊目だろう? 10冊は越えていないと思うが……。

というほど面白い、知的興奮を誘う本である。まだお読みでない方は是非挑んでみていただきたい。
すでに絶版になったようだが、AmazonではKindle版が579円、古本だと1円からある。私は確か、1円の古本で読んだと記憶している。