2018
12.24

12月24日 フレディ・マーキュリー

らかす日誌

私は、クイーンというバンドをそれほど好きではない。なのに、今朝BGMとして最初に選んだのは、クイーンの「A Kind Of Magic」であった。
かようなアルバムが我が家にあるのは、ひとえにネットワークオーディオのおかげである。なにしろ、CDやレコードを手元に置く必要がないから、TSUTAYAでレンタルしてリッピングすればいくらでも音源を手元に置くことができるのである。

「それほど好きではない」

というクイーンのアルバムも、数えてみると26枚ある。同じものが息子のところにもあるし、四日市の啓樹、嵩悟のところにもある。桐生市のO氏のところにもある。
音楽に関していえば、デジタル化時代とはそのような時代である。

で、それほど好きでもないクイーンのアルバムが、なぜ本日の1枚目に選ばれたのか。それが今日のテーマである。

朝日新聞を購読していらっしゃる方々は、今朝の朝刊に掲載された

「フレディ 孤高の輝き」

という記事に目を通されたかも知れない。クイーンのボーカリストして名をなしたフレディ・マーキュリーを描いた映画(だと思う。見ていないので正確なところは不明である)である。だからこれは、「ボヘミアン・ラプソディ」が大ヒットしているのに乗っかった記事だろう。まあ、私は見ていないが、四日市は一家を挙げて映画館に駆けつけたらしいから、この映画をご覧になった方も多かろう。話題に上っているのだから、それを記事に取り上げることに違和感はない。

しかし、だ。読み始めて私は、思わず我が目を覆いたくなった。お読みでない方もいらっしゃるだろうから、冒頭を引いておく。

「フレディの楽曲は、妖艶恍惚(ようえんこうこつ、とルビがある)のゆらめきを醸し、きてれつに展開し、ざわつく獣性に彩られている。歌えば、声は高くはかなく震え、鋭く、とろけるように芳醇で、朗々と雄々しい。ため息も摩擦音『S』も表現に富む。ステージ上の彼を見よ。出っ歯を大きくむき出し、屹立(きつりつ、のルビ)してシャウトする姿はたけだけしく、目を閉じてピアノを弾き歌う姿は気高い」

ここまで読んで、私はげんなりした。腐りかけのおはぎをそれと知らずに飲み込んでしまったような気分である。

これは、ファンクラブの会報に載る文章である。会報なら読者も同じファンだから、どれほど素っ頓狂な書き方をしても許されるだろう。しかし、ファンも、私のようにファンでない読者も併せ持つ新聞の文章ではない。朝日新聞はいつからフレディ・マーキュリーのファンクラブ会報誌に成り下がったのか?

「妖艶恍惚のゆらめき」って何だ? 私には分からん。しかも、それが「きてれつ」「展開」するんだと。
ネットで引くと、「きてれつ」は「奇天烈」とも書き、「非常に不思議なこと、非常に変わっていること」とある。通常はマイナスの価値判断を伴って使われる言葉である。
ついでに、「妖艶」は「男性を惑わすようなあやしい美しさ」、「恍惚」は「心を奪われてうっとりするさま。頭の働きが鈍り意識がはっきりしないさま。特に、老年になって起こる状態をいう」とある。男を惑わす美しさがボーッとなって、それが揺らめきを醸している。ちなみに「醸す」は「その場に、ある雰囲気や状態を出現させる」ことだそうだから、そうか、このボーカリストの歌を聴くと、男どもが何だか男同士で愛し合いたい気分になってボーッとしてしまう、ということか。
しかし、それが「きてれつ」に展開するとは、一体何のことだ? 「きてれつ」の語感からすると、

「手前、なんて気持ち悪い歌い方をしやがるんだ! 金返せ!!」

という言葉が後に続かなければ納まりがつかないのではないか?

私、かつて車中でJohn Lennonの「Imagine」を聴いて涙したことがある。「妖艶恍惚のゆらめき」のためではない。何故か、

「俺、無駄な人生を送っていないか?」

という唐突な思いにとらわれたのである。だから、音楽に対する感受性はそれなりにあると思う。
だが、クイーンの曲を聴いて「妖艶恍惚のゆらめき」でボーカリストを抱きしめてキスしたくなったことはないし、ボーッとして

「あれ、私もとうとうアルツハイマーかね?」

と嘆いたこともない。

「ざわつく獣性」って、これも分からん。自分の中の男が目覚めてしまって、レイプでもしなければ収まらなくなったということか?

声が、「高くはかなく震える」んだと。どんな声なのかね、フレディって。「とろけるように芳醇」? 途中は飛ばして、ピアノを弾きながら歌う姿が「気高い」? エルトン・ジョンは気高くないのか? ポール・マッカートニーは気高くないのか? ひょっとして、私が挙げた二人は服を着たままピアノを弾いて歌うから、気高く見えないのか? フレディ・マーキュリーがピアノを弾くときは、私が見たステージ(ただい、テレビで)で必ず上半身裸だもんな。「妖艶恍惚のゆらめき」でアルツハイマー状になると気高く見えてしまうのか?

いやいや、たったこれだけの短さなのに、突っ込みどころが後から後から出てくる文章である。こういう文章を、独りよがりの文章という。同類には通じるところもあるかも知れないが、大多数には絶対に、何も伝わらない文章である。
だから私は、ファンクラブ会報にしか掲載してはならない文章だと書いたのである。

新聞に掲載される原稿は多くの目を経る。まず筆者が書き、デスクと呼ばれる人がそれに

「これなら世に出してもいいだろう」

という水準になるまで手を入れる。
さらに、紙面に記事を割り付ける整理マン(ウーマン)がいて、最終的に原稿をチェックする校閲マン(ウーマン)がいる。暇なヤツが試し刷りの紙面に目を通すことだってある。いい文章を、正しい文章を読者に届けるには、その程度の手間暇をかけなければならないのである。

それなのに、こんな文章が紙面を汚して読者の手元に届く。衰えたか、朝日新聞! 衰えたか、朝日新聞の目!

この記事を書いた米原君。あなたの嫌いなアーティストについての原稿を書いてみなさい。こんな大仰な、とにかく人目を引けば成功、みたいな言葉は絶対に使わないはずだ。フレディに惚れるのはいい。が、彫れたアーティストの良さを、より多くの人に伝えたいのなら、フレディに感心を持っていない私のような読者にも、

「ほう、そうなのか。一度聴いてみるか。まだ映画をやっているのなら、映画館に足を運んでみるか」

と思わせなければならないのだ。それには、書く対象との適度な距離感は必須だ。距離感ゼロの文章は読む人の失笑を買うだけである。

ついでに書けば、君がコメントを求めた東儀秀樹さんも、この場でご登場願うには適切ではない。
クイーンには追従バンドが出てこず、ビートルには出た、と、いかにもビートルズよりクイーンが上であるという話をしている。だが、だ。あの世界、そんなに柔ではない。クイーンの真似をして売れると踏んだら、あの程度のボーカリストはいくらでも見つかるはずだ。楽曲だって、クイーンの味が出せる作曲家、作詞家は必ずいる。芸術といわれる絵画だって彫刻だって、本物そっくり、時には本物を越える偽物を創る贋物士はたくさんいた。ロックだけが例外でいられるはずはない。

ちなみに、私はビートルズファンだから一言付け加えておく。
確かに、たくさんの追従バンドは出たし、いまでも六本木に行けば、コピーバンドは数多くいる。いや、桐生にだってコピーバンドを自称するおじさんグループがいる。商業的にあるところまでいったのは、かつてのモンキーズが代表だろう。
だが、どれ一つとして、本物を越えたものはない。本物に並んだバンドもいない。そもそも、ビートルズの曲を歌って、ビートルズ以上に大衆を引きつけたバンドも歌手もいないではないか。
クイーンが唯一絶対であるように、追従バンドが多数出たビートルズも唯一絶対である。クイーンとビートルズを比較することには何の意味もない。

このような記事の書き方、まとめ方を

ひいきの引き倒し

というのだと私は断じる。皆様はどうお考えになるでしょうか?