2019
03.03

2019年3月3日 葬式ばやり

らかす日誌

今朝、葬式に出た。明日、葬式に出る。どういう訳か、葬式ばやりである。

今日は元群馬大学学長、赤岩英夫先生の告別式だった。
といっても、私は群馬大学の卒業生ではない。普通なら縁もゆかりもない方のはずで、亡くなった事実も、葬儀の日取りも知らないままに過ごしたはずである。

ところが、この方とは仕事を通じて知りあった。東日本大震災のあとのことだ。

福島原発の事故で桐生にも放射性物質が降ってくる。そんなピリピリした空気の中で、2011年の私は桐生を預かる地方記者として取材を強いられた。が、当時の私には放射能に関する知識はないに等しい。入り口程度の知識もなしに取材を始めるのは犯罪に等しい、と私は思う。世に流布する、何の科学的根拠もない不安感に乗っかって取材をして正しい記事が書けるはずがない。世の不安感を増幅するだけである。

そこで私は真面目に勉強をした。まず本で基礎知識を仕入れなければならない。とはいえ、放射能に関する本はたくさんある。一方に、自然の放射能を超える放射能はすべて毒であるという説を声高に唱える本がある。他方には、いやいやあなた、放射能なんてそんなに怖がるものではありません。原発? 心配ないあるよ、てな本もある。さて、どんな本を読んだらよかろう?

書店に出かけて品定めをした。

「これだ!」

と思った本は、被爆直後の広島に、京都帝国大学理学部物理学科(実験原子核物理専攻)の学生として放射性物質で汚染されたしたがれきを収集にいった、という大先生の本である。昭和20年(1945年)8月に学生だったのだから、その本を書かれたときはすでに名誉教授であった。
ふむ、この人は個人的な被爆体験を持つ。しかも、科学者である。であれば、無責任な言説を振りまくようなことはなかろう。そう判断してその本を隅から隅まで読み、取材の出発点とした。

震災後は、という漢字が持ち上げられていた。被災していない私たちも、被災した方々を支えていこうではないか。我々は絆で結ばれているのだ。そんな意味だろう。誠に時流に乗りやすい、お涙ちょうだい的な言葉で、私は

「おいおい、簡単に言うけど、本当にそんなことができるのかね?」

とうさんくさい想いでしか見なかった言葉である。

その言葉のいい加減さを象徴するようなできごとが桐生で起きた。被災地のがれき(可燃物)の処理を桐生市も手伝って欲しい、との打診が被災地からあった。絆を大事にし、被災していない我々が被災者を全力で支えようというのなら、即座に諸手を挙げて引き受けるべきである。
ところが、広範な市民から反対の声が上がった。

「放射性物質が付着している恐れがあるものを桐生で処理するのはまかり成らん! 桐生の土壌を放射性汚染物質で汚すな!」

というのである。
おいおい、多少の放射性物質はくっついているらしいが、科学的には問題がないと判断されているものだぜ。何でそれを燃やして体積を小さくするのがいけないの?
あんたたちは、このがれきをいつまでも被災地に置いておけというのか?
それとも、桐生ではないどこかで処理しろというのか?
絆はどこに行った?
あんたらは究極のエゴイストか?
と思ったが、私なんぞにそんな世論を正す力があるはずがない。

市長も迷ったらしい。私は市長の顔を見るたびに

「早く受け入れなさいよ。被災地は困っているんだから」

と言い続けた。その迷う市長の尻を押したのが、赤岩先生だった。当時、桐生市環境審議会の会長をされており、

「あのがれきは受け入れても何の問題もない。何なら私が前面に立ってもよい」

という趣旨のことをおっしゃったらしい。私の言葉では動かなかった市長も、この言葉で決断した。桐生での震災がれき処理が始まったのである。

それまでにも、いくつかの場でお顔だけは拝見していた。当時80歳近い年齢であったにもかかわらず、180cmはあろうかという偉丈夫で、実に味わい深い温顔であった。一言で言えば、いい顔の持ち主だった。この人は信用できる。

そんないきさつがあって、私は赤岩先生と、時折酒席を持つようになった。豪快な飲みっぷりで、語らいも、いかにも科学者であった。

「あのね、放射線被曝は線量が100ミリシーベルトを超えると発がんの危険性が高まることは科学的に実証されています。いま問題になっているのはそれ以下の被曝線量ですよね。これ、はっきり言って分からないんです。その程度の被曝量ではガンの発生率が増えるというデータがとれないんです。自然に発生するガンと発生率が変わらない。だから、科学者は『分からない』といいます。それが科学的な態度なんです」

分からないことを分かったような顔をして

「危険だ!」

と触れ回るのをえせ科学者という。私はこの先生を心から信頼するようになり、酒席を楽しんだ。

「先生が倒れた!」

という知らせを受けたのは4,5年前だったと記憶する。教え子たちとの酒席に出て、タクシーで帰宅された。

「先生、酔ってらっしゃるようだから送りますよ」

という教え子たちを

「大丈夫だ」

と抑えて一人での帰宅だった。
自宅の近くでタクシーを降り、歩いて自宅に向かいかけたとき、何かにつまずいて転倒された。その勢いで何かに頭を強打されたらしい。意識不明のまま病院に搬送され、そのまま2月16日に旅立たれた。お元気だっただけに、己を体力を過信されたとしか思えない。

「老いては子に従え」

を実践されていたら、いまでも酒席をともにし、含蓄のあるお話を伺えたはずである。
いまはご冥福を祈るばかりだ。

明日は、知人の旦那さんの葬儀である。あまりお目にかかったことはないが、O氏の幼なじみであるこの知人は酒席における私の論敵、というか喧嘩相手である。これからも老々喧嘩を継続するには、と思い、2日続けて喪服を着ることにした。

にしても、だ。
妻女殿曰く、

「この服、結婚式で着る機会がないわねえ。お葬式ばかり」

そういえば、九州の母が長くないことを見越して買った服である。確かに、身につけたのは葬儀ばかり。間もなく古希という年齢は結婚式に招かれることはほとんどなく、後から後から葬儀が湧いてくる年齢らしい。

そして、この服を着ることもなくなった私の葬儀だってそれほど遠くはないのだろうなあ……。