2019
03.24

2019年3月24日 平日と休日

らかす日誌

何だか、平日と休日が混乱してきた。
いや、年齢に逆らえずに惚けが始まって、医者に

「今日は何日?」

「今日は何曜日?」

と聞かれ、必死に記憶の底を探るのだが、さて、今日が何日で何曜日なのかの記憶がどこをさが探してもない。あれまあ、俺、惚けちゃった?

というのではない。
時間の過ごし方が、平日と休日で入り交じってしまったということなのだ。

昨日は3月23日土曜日、今日は3月24日日曜日である。その認識はしっかりあるから、まだ惚けてはいない。と思う。と信じたい

普通、土曜日と日曜日は休日である。私の認識は、記者時代からずっとそのままである。そりゃあ記者職だから、土曜も日曜も仕事、なんてことも多々あった。が、仕事をした土日にも

「今日は、本来なら休みだよなあ」

という意識がしっかりあったから、このあたりの感覚はほかの仕事の方々とそれほど違うとは思えない。
経済を担当する記者であった間は、土日は

取材先が休んでる

ということで、原則休日であったこともその認識を強めたと思われる。

それなのに、である。
このごろ、土日に、自主的に仕事をしてしまうのだ。

いまの仕事は多種にわたっており、先週は宇都宮まで出張したし、先々週は沼田まで行ってきた。
そんな仕事をしながら、一方で物書きの仕事もこなしている。問題は、この物書きの方である。

原稿を書くとは、ゼロから何者かを生み出すことに似ている。似ていると書いたのは、書くには取材をしなければ成らず、取材で材料が集まったあとでないと執筆できないからだ。取材で集めるのは原稿の種。その種が充分集まって書き始めるのだから、全くゼロからの旅立ちというわけではない。
しかし、種は集まっても、その種をどこにどういう風に配置すれば綺麗な花園ができるのか、それぞれの種から綺麗な花を咲かすためには、どんな肥料をやり、どの程度の水と日光を与えればよいのか。つまり、集まった種を生かし切るのはゼロからの作業に似る。
つづめていえば、かなりの頭脳労働である。

頭脳労働は落ち着かねばできない。もちろん、時間に追われて書き殴ることもないではないが、いい原稿にするには落ち着いて机の前に座るに越したことはない。

そんなわけで、原稿の執筆が土日になる比率が高まっているのである。事実、昨日も今日も、ほぼ終日机に座り、パソコンとにらめっこしながら執筆を続けた。とりあえず一段落したのはつい先ほど、午後4時頃のことである。

何故そうなるのか?
平日は「労働日」という意識がある。その「労働」が、机の前に落ち着いて座り、気分を静めて原稿を書くという行為と、何となく違うように感じられるのである。
私にとって労働とは、集まって会議をしたり、身体を動かして移動したり、誰かの求めに応じて資料を整えたり、誰かと会って必要なビジネストークをすること、などに限定されているような気がするのだ。ために、平日は何となく気分が落ち着かない。予定表に何もない日に自宅の机の前に座っていても、

「いつでも出かけることができる」

態勢でいなければならないような気がして、土日に比べると気分の落ち着き方が違うのである。ちょっと不思議な現象である。

頭では分かる。今日は出かける用事はないのだから、日暮らし硯に向かってもかまわないと自分に言い聞かせることもある。急ぎの原稿なら、自らを説得して書き始めることもあるのだが、それも「説得」という手間がかかる。やはり、原稿は土日に書くに限るのだ。

そして、思う。
原稿を書くのも仕事なら、土日に働いた分、平日に休めばいいではないか、と。
まあ、必要があれば、仕事以外のことにまるまる費やす平日もある。サラリーマン時代でいえば有給休暇を取るようなものだろうか。
だが、特段の用事がなければ、やっぱり平日は

「ひょっとしたら仕事する日」

であって、休日にしようと思っても気分はなかなか休日にならない。

損な性分? そうかもしれない。
でも、古希が迫ったいまでも仕事をする私だが、いずれは全く仕事をしない年齢になるはずだ。

「その時になって、毎日が日曜日を満喫すればいいではないか」

と自分では思っている。

一つだけ困るのは、その時の私が、毎日が日曜日の日々に耐えることができるのかどうかが不明である点だ。
毎日が日曜日。私はどんな気分で日々を過ごすのだろう? いまは朝起きたら

「今日はやることがあったかな?」

とまず考える。しかし、毎日が日曜日なら、そんなことを考える必要はない。ただ目を覚まして布団から抜け出せば済む。その時、私は何を考えながら起き上がるのだろう? 何も考えることがなければやがて脳は

「働かなくていいのなら、俺、休んじゃうぜ」

と働きを止めるのではないか? それを惚けというのではないか?

何だか恐ろしい未来図である。

老いの繰り言として読み飛ばしていただきたい一文になってしまった。お許しあれ。