2019
04.19

オリンピック精神を考え直してみた

らかす日誌

昨日は朝目覚めたときから二日酔いを自覚した。全身、これ気力が湧かない。何かをするのが億劫で、何かを考えようとしてもまとまらない。原稿を書くなんてとんでもない。

というわけで、何となくブラブラしただけの1日であった。

その前日がなかなかのものであった。
呼び出しを受けて自宅を出たのが朝の11時過ぎ。彼と一緒に群馬大学理工学部の食堂でカレーライスを食べ、午後1時から会議。3時から30分ほどの休憩を取り、場所を変えて3時半から再び会議。5時過ぎに終え、再び場所を変えて6時からは懇親会。

いつもなら、懇親会は9時頃には終わる。私は自宅に戻って映画鑑賞に移る。ところが、どうしたわけか一昨夜は違う展開が待っていた。

「大道さん、ちょっと行きましょうよ」

行きましょうという目的地は2次会である。

「たいした店じゃないけど、もう少し飲みたいでしょ?」

いや、私の頭は映画鑑賞に移りつつあったのだが、まあ、そう誘われれば断る勇気を私は持ち合わせていない。

いい歳をした親父(一人だけ、まだ30歳前後の若者がいたが)がゾロゾロという感じで桐生の夜を歩き、

「ここですよ、ここ。ここを右に曲がって、はい、その階段を上って、うん、ドアを開けて」

シートに座ってみれば、確か7人のご一行様である。水割りもビールも出ず、ワインのボトルが抜かれた。

「乾杯!」

いったい何に乾杯するのかは分からないが、みなでグラスを合わせる。あとはもう無礼講である。

「あなたのいってるのは、そりゃあ違うよ。そんなことしちゃダメだ」

「違いますよ。そうしなきゃ群馬は良くならないんだ」

「俺、群馬が良くなるかどうかなんて全く関心がないもんね。関心があるのは桐生と日本。その二つが良くなれば、群馬なんてどうでもいいもん」

いったい何を論じていたのか。実は記憶にあるのだが、やや問題含みなので酒で記憶がすっ飛んだことにしておく。

ということで、いったいどれだけのワインを胃に流し込んだのか。

「代行が参りました」

と店のマスターに告げられ、車に乗り込んで自宅に帰り着いたのは、ふと時計を見ると午前1時過ぎである。
確かに、これじゃあ二日酔いになっちゃうわなあ。

それでも、なのだ。

ブラブラしただけの1日、と書いたが、実は仕事を2,つこなしていた。午前1件、午後1件。さすがに午前中は

「済みません。今日は久々に二日酔いになりまして」

と、インタビューを1時間半ほどで切り上げて退散。
午後は30分ほど喫茶店で打ち合わせをして退散。

二日酔いにもめげず、なかなかやるアラ古希(アラウンド古希)ではないか?

東京五輪の入場券が間もなく売り出されるのだそうだ。全く関心がない私が買うはずもないのだが、ボーッと考えていたら不思議なことに気がついた。

オリンピックって、アマチュアスポーツの祭典ではなかったのか?

アマチュアスポーツの観戦料として、安くて2500円(多分、人気のない協議なのだろう)、高いと30万円(入場式)というのは、法外じゃないか? オリンピックはいつからプロスポーツの祭典になったんだ?

いや、アマチュアスポーツで入場料を取るものはある。夏の甲子園は特別席が2800円、外野の自由席は大人500円、子ども100円である。
同じ甲子園球場で、プロ野球球団である阪神タイガースの試合を見ようと思えば、最高が5万6000円、安い外野席の最低料金は大人1900円、子ども600円である。
この価格差が、プロとアマの違いではないか?

では、東京オリンピックは?

高すぎる! べらぼうに高すぎる!!

かつて共産圏から出場する選手たちは

「国家プロ」

といわれた。彼らはアマチュアではなく、国が暮らしの面倒を見てスポーツだけに打ち込ませているのだから、彼らはプロスポーツ選手だと。
一方西側陣営からの選手たちは、国に面倒を見て貰うことなんてありえない。自分で生活の資を稼ぎ出し、残る時間をスポーツに注ぎ込むアマチュアなのである、と。
前提条件が違い、不公平な条件で闘うのだから、ソ連や東ドイツの成績がよいのはやむを得ぬことであるというニュアンスでそう語られた。

ところが最近では、誰もそんなことはいわない。ソ連をはじめとする共産圏諸国が自壊し、

「国家プロ」

という選手たちがほとんどいなくなったのが原因の一つである。

そしてもう一つの原因は、西側諸国から出てくる選手たちも、それぞれプロ化したからである。
プロ野球選手も出場してよろしいことになった野球だけではない。そのほかの競技に出場する選手たちも、多くはどこかの企業のチームに入り、そこに所属することで生活の資を得る「プロ」になってしまったからである。

「午後○時まではきちんと仕事をしてもらう。練習はその後だ」

というアマチュア精神をいまだに残している企業傘下のスポーツチームはいまどれだけ残っている?

おまけに、どの国も「強化選手」を選び出し、おそらく税金で競技能力の強化を図っている。いまや、企業に雇われたプロである彼らは、一面では「国家プロ」でもある。二重の意味で、オリンピックはプロスポーツの祭典になってしまった。

アマチュアスポーツの祭典なら、金栗四三君のように、

「参加する」

ことに意義があるかも知れない。
しかし、プロ同士の対戦なら、勝たねば意味がない。負けるチーム、負ける選手がいなければ勝つチーム、勝つ選手が現れないのは道理だが、であれば勝つ方が賞賛を受けるのは当たり前の話である。

勝ちそうにない選手まで日本代表にする必要はあるのか?

アマチュアスポーツの祭典ではなくなったオリンピックは、オリンピック精神を根底から考え直せと迫っているのではないか?

あまりにオリンピック、オリンピックと騒がしいので、ついつい冷静に、オリンピックを考え直してみた。