2019
05.12

本当によく働くなあ。現役のころより働いているかも

らかす日誌

10日金曜日は、終日、他の人の原稿を直していた。

昨日、11日は沼田市まで写真を撮りに行った。

今日は何もするまいと思っていたが、やっぱり他の人の原稿に手を入れていた。

最近の私、本当によく働く。朝日新聞で働いていたころ、こんなに仕事していたら今頃社長になっていたかも? あ、社長になっていたら、もう引退後の生活か。

順を追って説明する。
いま、本の出版のお手伝いをしている。創業140年を過ぎた会社が、

「我が社のDNAを可視化したい」

と本の出版を計画、私がそのお手伝いをすることになった。本記に当たる部分は私が話を聞き、文章にまとめた。A4でプリントしたら、90枚近くになった。1枚で1000字とすると、9万字である。
ネットで、本1冊でどれくらいの活字が入っているのかと調べたら、8万文字から12万文字であるとあった。そうか、それならば、持ち重りのする本に仕上げるため、もう少し原稿が欲しい。
そう思って、

「社員の人たちにも、それぞれ会社への思いを書いてもらったらどうでしょう?」

と提案し、採用された。
その原稿がどっと出てきたのである。

ほとんどが原稿用紙に書いてある。これをまずパソコンに打ち込まねばならない。
また、このような文章を書く習慣のない方々の原稿である。手を入れなければならない。
この2つが重なり、9日に少しこなし、外出する用事がなかった10日に集中して作業をした。

朝日新聞代にも他人の原稿に手を入れたことがある。上手い人、下手な人、様々である(私が上手いというわけではない。ある年齢になると、だれでもそんな仕事が割り振られる)。中でも、原稿を書く日常を持っていない人には、文章が下手な人が多い。

驚いたのは、とある大学の先生である。確か1000字ぐらいの原稿だったと記憶するが、縦書きの原稿用紙に、なんと横書きされており、しかも段落がたった2つしかない!
いずれも、

「この人、常識がないのかね?」

と思うに十分である。
小説なら、そんな書き方もあろう。だが、この原稿はどちらかといえばエッセイに近い。段落は多い方が読みやすい。

とはいえ、この程度のビックリなら、原稿をパソコンに打ち込み、読みながら段落を増やせば済む。ところが、そんな手先の作業では何ともならない原稿でもあった。
読んで、意味が通じないのである。頭に浮かんだ由なしごとをただ書き連ねた、といえばいいだろうか。今読んでいる文と、次の文が繋がらない。

「この原稿、いったい何がかいてあるんだ?」

そう、大学で教鞭を執っておられる方がお書きになった文章が、一読程度ではちんぷんかんぷんなのだ。それも、難しい言葉が多用されているからではない。使われている単語は日常使われるものがほとんどで、つまり、その並べ方が変だからどう読んでも意味がとれないのである。

私が読んで意味が分からない文章を新聞に掲載するわけにはいかない。とりあえず電話をしてみた。お出にならない。まだ携帯電話が普及していない時代で、だとすればご本人の説明を聞かず、私が判読して分かる文章に直さなければならない。

読んだ。苦闘した。

多分、こんな意味なんじゃないか?」

をいくつも積み重ね、直し終えた。直し終えた文章をプリントし、FAXで先生のところに送った。

確か翌日だったと思う。その先生から電話をいただいた。

「いやあ、実に上手に直していただきまして。私が言いたかったのはこういうことなんです。ありがとうございました!」

ひょっとしたら社交辞令だったのかも知れない。内心では

「こんなに、もとの文章が分からないほど手を入れやがって、この野郎!」

と怒り心頭だったのかも知れない。それでも、にこやかに電話をしてこられた。そして、私が直した文章が新聞に掲載された。
怒り心頭だったとしても、こう書きかえなければ人が読める文章ではなかった、と私は思う。

大学に奉職されているのだから、人なみ優れた知性をお持ちの方である。だから、特定のテーマについて朝日新聞として継続的に執筆をお願いしていた。
そんな方でも、そういう文章をお書きになる。文章を書くとはそういうものらしい。

余談が過ぎた。元に戻る。
私がその会社から預かった30編近い原稿は、一般的な意味では「下手な原稿」である。中には、メモに近い文章もあった。それを、読める文章に直す。なかなかの力業である。
終日作業を進めて、私は疲れた。疲れたが、何だか清々しい疲れ方だった。

下手な文章ではある。だが、どれもこれも、書いた人の一所懸命さが伝わってくる文章だったからだ。思いがあふれ、何とか表現したいのだが、その方法が分からない。勢い、一つの文と次の文が繋がらず、何だか叫びに似た文が並んでいるものがある。一般社会にはびこる常識に囚われすぎて、自分だけの想いがつまらない表現をまとっているものがある。
しかし、それでも、書いた人の熱さが何となく伝わってくるのである。

文章とは、多数の人が読むことを前提に成立するものである。だとすれば、多数の人が読んで分かるものでなければならない。その会社をある程度知っている私だから理解できる叫び、表現ではなく、その会社を全く知らない人が読んでもきちんと意味が通じ、思いが汲み取ってもらえるののでなければならない。

そう思って手を入れ続けた。しかし、思いのこもった文章にはどこまで手を入れていいのだろう?
あまりに私風の表現に直しすぎれば、その人の思いがどこかで消えてしまうのではないか? 一般的に拙いと見られる表現でも、それは書いた人の思いを運ぶ表現であり、安易に私の表現に置き換えては、その思いがこぼれ落ちるのではないか? 下手なら下手な文章のままの方が、読む人に思いが伝わるのではないか?

そんなことを思いながら

「こんなに直していいのか?」

と何度も自分に問いかけながらの作業だった。だから、疲れたのかも知れない。

終わって、社長宛のメールに、直した文章をすべて添付した。そのメールに、こう書き添えた。

27人分読ませてもらって、筆を入れて、できればみなさんの前で謝罪したい思いがあります。
「あなたのせっかくの原稿を勝手に直して御免ね」
といいたい気分です。

ただ、総じていえば、原稿の出来不出来はありますが、みなさん、とても可愛い。多分、こんな原稿を書くことは絶えてなかったはずなのに、みなさん、思いの丈を何とか文字にしようと奮戦しておられます。それがひしひしと伝わってきます。

いい会社を作られましたね。

その方々の文章と比較したくなる文章に今日接した。これも仕事である。
例えば、こんな文章だ。

「祭りの後の宴は、時には悲しみに似た感覚を持つことがある。日本の祭りの特色である、ハレとケの世界を神々の中で体験する」

この方、たくさんの語彙をお持ちである。一般的にいえば、知性をきらめかせたペダンティックな文章とも言える。桐生ではインテリで通っている(現実は、「通っていた」)方である。おそらく、本もたくさんお読みなり、郷土史にも通じていらっしゃるのだろう。
しかし、そんな方にしては言語感覚が不確かではないか?

最初の文、どう見ても主語は「宴」であろう。そして述語は「持つ」、目的語は「(悲しみに似た)感覚」。とすると、「宴」が「感覚」を「持つ」ことになる。そんなことがあり得るか?
私の言語感覚は、最初の一文を見ただけで違和感を叫び出す。

次の文。これ、どういう意味だ? 主語は略されているが、おそらく「私」、あるいは「私たち」だろう。だとすると、私たちは祭りの後の宴に出ると、ハレとケの世界を体験するということになる。
私も祭りの後の宴に参加したことはある。しかし、酒飲んで飯を食って、歓談して、盛り上がるだけである。ハレとケの世界なんて体験したことがない。いや、そもそもハレとケの世界の世界、って何だ? それを神々の中で体験する? 宴に出た俺の周りにいたのはおっさんとおばさんで、あの人たちが神々?

という不快感が沸き起こる。
インテリを自称する人が、自分がインテリであることを認めさせようと文を書く。得てしてこのような意味不明の文章が出来上りがちである。読んでいて気持ちが悪い。読めば、

「どうだ、俺はインテリだぞ!」

という書き手の下種な根性が透けて見えてくるからだろうか? 本当のインテリはもっと淡々としている。能ある鷹は爪を隠す。

それに比べれば、10日の終日をかけて読み、手を入れた文章の心地よさは格別だ。文は人なり、とはこのようなことをいうのだろう。

思わず、長くなった、沼田行きの話は明日にする。