2019
05.31

人はこのようにして死ぬこともあるのだ、と実感した昨夜であった

らかす日誌

昨夜は宇都宮からの客を迎えての宴会であった。仕事の一環である。

1次会は市内の料亭で開かれた。私が知る限り、桐生には2軒の料亭があり、最近は2軒の料亭のお馴染みさんの一員となってしまった。料亭より小料理屋、それより専門料理店(寿司、スペイン料理、韓国料理など)を好む私としては本意ではないが、もともと桐生の飲食店にはバラエティが少ない。ある程度の人数が集まっての宴席となると他に選びようがないのが実情である。舌をある程度満足させるのに、街の経済力は決定的な力をふるうものであってみれば、これも致し方ない。

遠方からの客とあって、1次会がはねるとすぐ隣のスナックで2次会となった。まあ、これも流れである。ウイスキーの水割りを飲み、そのうちカラオケが始まったとお考えいただきたい。

時計の針が11時に近づいた。お客様の1人は酔眼朦朧である。そろそろ潮時だ。宴会をお開きにすると、ほとんどの方々は宿舎であるホテルにお引き上げになった。地元からの参加は私だけで、その場で皆さんと別れた。
別れれば、あとは家に帰って寝るだけである。私は、すぐ近くのタクシー乗り場に歩を運んだ。桐生程度の街になると、流しのタクシーはいない。タクシー寄せ場に行かねば、タクシーにはありつけない。着けば、備え付けの電話で、その寄せ場に車を回すように頼む。

「お客さんですよ」

と電話口で話すと

「いま混み合っているので20分から25分お待ちください」

という。ふむ、これからそんなに長い時間を待つのか。
諦めて椅子に座り込むと、急に尿意を催した。トイレに行かねば。いや、待てよ、この寄せ場のトイレはいつも施錠してあるのではなかったか?
念のためにトイレの前に立ってドアを開こうとしたが、やはり施錠されている。このトイレ、一体何のためにあるんだ?

あと20分。持ちそうにない。やむなくスナックに引き返した。

「トイレ貸して」

放尿しながら、何だか腹がたってきた。そもそも、タクシー寄せ場にあるトイレがなぜ施錠されなければならないのだ? 酔客は往々にして尿意を催すものである。だから、そこに客を待たせるのなら、トイレぐらい解放しておくべきである。それを施錠しっぱなしということは、掃除をするのが面倒なのか? トイレ掃除の人員を雇用するコストをケチっているのか? いずれにしてもサービス業にはあるまじきことではないか!

こうして放尿中の私は決心した。

「よし、歩いて帰る! タクシーなど待つものか!!」

トイレを済ませ、店を出た私はひたすら自宅に向かって歩き始めた。
宴会は午後6時過ぎから始まった。ということはほぼ5時間にわたって酒を飲んでいる。それなりに酔いは回っている。その証拠に、歩く方向が時折ぶれる。真っ直ぐに歩いているはずが、右や左に方向転換しそうになる。

「酔ってるな」

ま、酔うのは日常茶飯事である。完全に足をと取られるほどの酔いではない。これならマネジメント可能な酔いの程度である。
と思って歩き続けた。

ドサッ

という音が立った。気がつくと私は、道路に腹ばいになっていた。ん? 何が起きた? なぜ俺がここに寝てる?
道路に腹ばいながら、数秒考えた。すぐに起き上がる気は、なぜかなかった。腹ばったままの思考。そうか、何かに蹴躓いたような記憶があるなあ。それで足を取られたか?

ゆっくりと起き上がった。右の肘と左の膝が痛む。あれまあ、怪我しちゃったか。
立ち上がって足元を見る。鉄板があった。道路と駐車場の路面の高さが違うため、出入りする車のためにスロープを造る鉄板である。その鉄板が少しずれている。
これに蹴躓いたらしい。暗くて見えなかったのだ。

何とか家にたどり着き、服を脱いだ。やっぱり、右肘と左膝から血が出ている。洗面所に行って血を洗い流し、パジャマに着替えて布団に入った。

あー、やっちゃったな。俺、酒に酔って転けちゃったよ。
眠りに落ちるまでの短い時間、そんなことを考えていた。そして恐ろしい事実を思い出した。

桐生に赤岩英男さんという方がいらっしゃった。もと群馬大学の学長で、取材で知り合って仲良くなり、何度か酒席をともにした。背が高く、堂々とした体躯で、豪快にお飲みなる。いかにも学者らしい粛々とした話しぶりは大変に心地よく、私の尊敬する先輩の1人であった。
その赤岩先生が今年2月になくなった。確か2年ほど前、酔って転倒、頭を道路脇の石に強打し、意識が戻らぬまま旅立たれた。

その日はかつての教え子たちとの宴席であった。教え子の1人が先生をタクシーに乗せ、自宅の近くまで送った。タクシーを降りる赤岩先生に

「先生、かなり酔っていらっしゃるようなのでご自宅まで送りますよ」

と声をかけたが、先生は

「何を言ってる。俺の家はもう目と鼻の先だ。君に助けられなくても歩ける。大丈夫だ。君は帰りなさい」

とおっしゃった。
日頃頑健な先生である。そういわれれば引き下がるしかない。彼はそのままタクシーで自宅を目指した。事故はその直後に起きたのだった。先生が、確か80歳を少し過ぎたころのことである。

「そうか、赤岩先生は、今晩の俺のような状況で転倒し、そのまま身罷られたのか」

思いついたのである。私が転倒した場所に花壇でもあったら、私も頭部を強打していたかも知れないではないか。

ふむ、古希という年齢は、人生の危険地帯に足を踏み入れる年齢らしい。それを心にとめて暮らしの細部にまで神経を行き渡らせ、リスクを最小化させないと、赤岩先生と同じような死に方をしないとも限らない。柔道2段の私は転けても受け身が出来る(はず)で、身体へのダメージは最少に抑える術が身についていると思うのだが、倒れる先に縁石、花壇、突起部などがあれば身は守れないのである。

そこまで考えて眠りに落ちた。

今朝は8時に目が醒めた。痛い。右肘と左膝が痛い。中でも右肘は、椅子のアームレストに乗せても痛む。

昨夜は転ばぬ先の杖が欲しかった、と思っても、後悔先に立たず。
我が年齢を噛みしめる私であった。