2019
08.09

地獄のような暑さの中、それでも私は働き、日誌まで書いているのだった。

らかす日誌

午後3時頃、車の外気温計が40℃を示した。やっとれん。こんな日に仕事をするヤツは頭がおかしいのではないか?
とも思うが、車で走れば、道路工事、電気工事で太陽の下に立つ親父たちを目にする。それになにより、車を運転している私も働いてしまったのだ、朝から。
私も頭のおかしい親父たちの一員らしい。

ということで、しばらく中断していたが、「ネット階級社会」の「解決策」に手をつける。

ところが、なのだ。インター−ネットが抱える問題の大きさに比べて、この「解決策」、なんだかはぐらかされたような気がするのは、私だけだろうか?

それはこんな文章なのだ。

「インターネットの大失敗への解決策が1つだけあるとするならば、その唯一のソリューションは忘れることの逆である。つまり、記憶容量を増やすのだ。コンピューターのメモリーではなく、人間の記憶のことである。歴史こそが解決策なのだ」

こう書かれて、最初に思い浮かぶのは「?」である。歴史が解決策って、何のこと?

こういうことらしい。
インターネットはなにもかも正確に記憶する。その分だけ、私たちの記憶力は退化する。これに抗って、違った発想を持とうではないか、と著者はいうのである。インターネットの世界に抵抗せよ、シリコンバレーの歴史的視点に欠けた確信に疑問を持とう、と。

いやいや、もっと具体的な解決策もある。グーグルを解体せよというのである。
著者によると、かつての独占企業を消滅させたのは、独占禁止法をはじめとする新しい法律だった。セオドア・ルーズベルト大統領はスタンダード・オイルを反トラスト法違反で告発した。もし彼が生きていたら、グーグル、マイクロソフト、アップルに集中砲火を浴びせただろう。だから、欧州議会やアメリカ合衆国議会が果たすべき役割をちゃんと果たすべきだというのである。
つまり、新しい法律を作り、インターネットで法外な利益を稼ぎ出している企業を規制しろというのだ。

政府にばかり頼るわけにもいかないだろう。そこで著者の次の手は、デジタル界の新興成金が、産業革命以来最も大きな衝撃をもたらした社会経済の破壊について説明責任を果たすことである。そしてその場所は、シリコンバレーなどデジタルパワーの中心地で行う。ということは、デジタル企業に自主規制の動きを求めるのだろう。

解決策は、政府による規制と自主規制の2本柱らしい。

でもさあ、そんなこと、出来るのかね?
ということは、著者も自覚していたらしい。「あとがき」で著者はこう書いている。

「この結論はどちらかといえば暫定的なもので、白状すれば、確信より希望に近かった」

あまりにも大きな敵と向き合って、この敵を打倒する方策を編み出すことが出来なかったということか。

だが、この「あとがき」で著者は、新しい希望を見いだしている。あのオバマ大統領がスタンフォード大学で2015年2月に演説し、

「われわれに偉大なことを成し遂げるパワーを与えるテクノロジーは、われわれを傷つけ、ひどく害する場合がある」

と語った。この演説でインターネットの歴史の第3期が幕を開けたと著者は書く。
ヨーロッパではグーグルにとって最悪の人物が欧州委員会競争担当委員に就任した。2015年4月、彼はグーグルを独占禁止法違反容疑で告発した。また、この年2月にはアメリカを拠点にする数多くのインターネット企業を取り締まるため、欧州全体を管轄する新たな監督機関の設置が提案された。
いまや取り締まられるかも知れない立場に追い込まれつつあるインターネット企業にも、新しい動きに対応しようという姿勢が出てきた、とも著者はいう。

まあ、この本で分かるのはここまでである。
しかし、だ。こうしたアメリカ、ヨーロッパの動きに比べて、日本はノーテンキである。新聞やテレビで、インターネットがもたらした影の部分を特集したものがあっただろうか? 警告を発する専門家、学者がいただろうか?
いまだに、

「インターネットを活用しなければ新しい時代のビジネスは切り開けませんよ!」

という言葉ばかりが横行しているのではないか。
それでいいのかなあ……。

明日は午前7時発で宇都宮に向かう。仕事である。明日も続くらしい酷暑の中で仕事をしようという親父4人組である。
明後日は、桐生祇園祭の直来(祭が終わっての飲み会)に誘われた。今年はほとんど何もしていないのだが、私も誘われるかねえ。顔を出す予定である。

そうそう、先日から続けていた本を作る作業が一段落した。今日、最終稿を納めてきた。盆明けの19日から印刷にかかり、月内には500冊の本が出来上がるはずである。
ゲラは3刷りまで出た。そのたびに直しを入れたのだが、3度目のゲラでも10数カ所の直しを入れた。まったく、時間と手間のかかる作業である。
3度目を通して、そのたびに間違いや修正箇所を見つけ出すということは、最終稿にも間違いが残っている危険があるということである。しかしまあ、本を読むと時折、

「これは間違いだよな」

という箇所がある。つまり、専門家でもミスをするということである。私は校閲の専門家ではない。だから、多少のミスが残ってても仕方あるまい。
という話をしたら、

「大丈夫だよ。もしそんなところが残っていたら、それをネタに笑いを取るのが私は上手いから」

というのが発注主のコメントである。
うん、いいお客さんだ!

明日は早い。そろそろ寝る。おやすみなさい。