2019
08.12

地産地消とは亡国の論理であると思うのだが、どうだろう?

らかす日誌

中学3年生になる四日市の啓樹が夏休みの宿題に取り組んでいるとか。テーマは、「地産地消」である。四日市、あるいはその近郊で採れた食材で食事を作る。それを写真に撮って提出する。
何でも、地産の牛乳は1本300円もするらしい。スーパーでは180円前後で同じサイズの牛乳が手に入る。高級な牛乳を手に取っても220〜240円程度である。
啓樹は宿題のために、高い牛乳を買った。

アホウといいたくなるほどバカな宿題である。宿題を出す教師よ、もっと考えたらどうだ?

いや、啓樹が高価な牛乳を買わざるを得なくなったから「アホウ」といっているのではない。先生、「地産地消」を推し進めていったらどんな結果が出ると思います? それを考えない教師をアホウと言っているのである。

「地産地消」とは最近の流行言葉である。地元で採れた肉や野菜、魚を食べましょう、という運動であると私は理解している。そのどこがバカなのか?

まず、この運動を徹底すれば、農村地帯が滅ぶ。考えてもみて欲しい。農村地帯とは人口密度が低いところである。田んぼや畑がたくさんあるから、自ずからそうなる。では、その田んぼや畑で採れた米や野菜、果物を「地消」したらどうなるか? 余る。大量に余る。だから、産地は距離的に離れた都会の市場に余剰生産物を出す。こうしてお金を稼ぐ。

「地産地消、なんて言っていたら、われわれ全滅ですわ。われわれの米や野菜を都会の人に食べてもらい、外国の人にまで食べてもらうから農村は成り立っていることを知らんアホウの言葉です」

とは、群馬県利根・沼田地方の農協幹部の言葉である。

地産地消を徹底すれば、東京で餓死する人が続出する。そりゃあそうだろ? 東京にどれだけ農地がある? 東京湾でどれだけの魚が捕れる? 東京に牛や豚を育てる農場があったっけ?
片手に乗るだけの米と、アジの開きの6分の1と、小皿に盛るだけの野菜が1日分の食事となったら、餓死者が続出するのは目に見えている。しかも、地価が腰を抜かすぐらい高い東京の田んぼや畑で採れた米、野菜にはいったいどれほどの価格がつくのか? 考えただけでも恐ろしくなる。
まあ、これには東京一極集中を是正するプラス効果があることは確かであるが。

要は、地産地消論者は、全員で1000年の昔に戻った暮らしをしよう、といっているのに等しい。そのころ海から離れた京の都では新鮮な魚が手に入らなかった。口に入るのは塩で防腐処理された干物だけである。その遺産が、京都名物鰊そばであることは常識である。

「いや、そんな極端なことは言っていない!」

という反論が戻ってきそうだ。

「そんな狭い地域で地産地消をしようとは主張してない」

と。

ほう、そうなら、どの程度の範囲を「地」と呼ぶのか教えていただきたい。概ねの理解は、行政区分による。桐生市なら桐生市で採れる食材を桐生市で消費するのを「地産地消」と呼ぶのではないか。少し広げても、群馬県で生産する食材を群馬県で消費するのをいうのではないか。
もっとも、桐生市は栃木県足利市と接している。前橋市より足利市の方がずっと近い。とすると、足利市で採れたものを桐生市のわれわれが口にしても、「地産地消」と呼べそうである。
いや、最近は輸送技術が良くなって、距離ではなく時間、加えて鮮度で「地」を定義するとなると、ずいぶん遠くのものも「地」で採れたものといえるのではないか? 北海道十勝平野で乳牛から搾られた牛乳を群馬県桐生市の私が飲んでも「地産地消」といえそうな感じがするが、それでいいのか?

曖昧なのだ、「地」の概念が。「地産」は採れた場所のことだから間違いようがない。問題は「地消」にある。どこまで離れたところで採れたものを消費するのを「地消」というのか。

いやいや、問題はそれだけではない。インド沖で採れたマグロが焼津の港にあがった。さて、このマグロはどこで「産」したものなのか。インド沖か、焼津か。同じマグロが福岡の港でも陸揚げされていたらどうする?

「地産地消」を唱える人たちは、世界経済の仕組みについての知識が皆無である。この運動が成功すれば、石油は産油国ですべて消費しなければならない。われわれはガソリン車、ディーゼル車には乗れなくなる。電気自動車だって、元になる電気は石油や石炭から生み出されている。石炭だって、確かオーストラリアからの輸入に頼っているはずだ。とすると電気も日本ではダメ。国産エネルギーである水力発電、太陽光発電だけでは、電気自動車に乗れないばかりか、各家庭の灯りは国産のローソクに頼らざるを得なくなる。いや、さらに国内での「地産地消」を推し進めれば、東京の夜は真っ暗になる。

「地産地消」というのは、そのようなことだと思う。近代社会がどのようにして成り立っているのかを一顧だにしない暴論である。

かつては主に輸送能力の制約から、人類は「地産地消」せざるを得なかった。映画「エデンの東」で、主人公キャル(ジェームス・ディーンが演じた)の父は、レタスを凍り漬けにしてニューヨークに出荷しようとする。ところが、雪崩で汽車が止まり、氷が溶け出してレタスは腐ってしまう。われわれの先人たちは、何とか「地産地消」しか出来ない世界を乗り越えようと知恵を絞ってきたのだ。キャルの父親はそれに失敗したのである。
そんな先人たちの苦労の積み重ねの上に、いまの私たちの暮らしがある。それを、「地産地消」しか出来なかった昔に戻って何の意味がある?

「地産地消」を徹底するとは、いまトランプの仕掛けで始まった米中の貿易戦争が更に激化し、アメリカと中国が貿易を止めることである。それが世界の潮流になったら、すべての貿易が止まる。われわれはiPhoneを使えなくなるし、ネットワークオーディオだって楽しめなくなる。BMWに乗るなんて夢のまた夢で、泣く泣くマツダの車のハンドルを持つことになる。

一つの論がまっとうかどうかを判断するには、その論を極限まで推し進めたら何が起きるのかを考えれば良い。推し進めてハチャメチャな未来像が浮かび上がってきたら、その論は間違っている。

啓樹の夏休みの宿題から話が広がってしまった。
私は「地産地消」など頭から馬鹿にする人物である。日本酒は地元の「赤城山」より、新潟・魚沼の「港屋藤助」がはるかに美味しい。ワインはスペイン・リオハ産を好む。カリフォルニアの「オーパス・ワン」も素晴らしい。ビールはベルギーがいい。牛肉は三重県産が良いし、宮崎地鶏の桃焼きは美味である。イチゴはトチオトメで、西瓜は…………。

それぞれに産地がある。産地は産地ならではの工夫を積み重ね、品質を高めている。それをすべて楽しめる現代をもう少し評価していいのではないか?

私が四日市にいたら、アホウな宿題を出した教師に、やんわりと抗議にいくかも知れないが……。先生、出来ることならこの拙文を読んでくれ!