2019
10.27

仏教はいつまで呪文に頼るのだろうか?

らかす日誌

10月はなぜか葬式が2件も続いた。買ったばかりの夏用礼服が活躍した。

まあ、それはいいのだが、葬式に出るたびに思うことがある。坊主がやって来てモゴモゴ言うお経って、いったい何を言っているんだろう?

2件のうち1件は日蓮宗だった。これは

南無妙法蓮華経

で始まるから、ある意味馴染みがある。ここだけは子どもの頃から耳で聞き覚え、

なんみょうほうれんげっきょ

などと囃子にしていたからである。
いや、この一文は耳で聞き覚えてはいるが、では、

「どんな意味?」

となると、

「?」

というのが私である。ましてや、このあとに続くお経なんて、聞き覚えもないから単なる呪文に過ぎない。あんな、列席者のほとんどに通じない言葉を羅列することに何の意味があるのだろう?

なんでも、「南無」とは帰依する、という意味の仏教用語らしい。そして「妙法蓮華経」とは法華経の正式名称みたいなものらしい。はあ、法華経に帰依します、という意味かいな。

もう一つの葬式は宗派は分からなかったが、こちらも坊主の唱えるお経は一言半句理解できなかった。聞いたことのない外国語のように耳のそばを流れていくだけである。仏式の葬式では宗派はちがっても、どこでも似たようなものだ。

ずっと昔、一度だけキリスト教の葬式に出たことがある。ここでは牧師さんが、紛れもない現代日本語で亡くなった方を悼んでいた。話の中身までは記憶にないが、それでも理解だけは出来た。ところが、仏式の葬式では、何も理解することが出来ない。

なぜ日本の坊主たちは呪文を唱えるのだろう?

おそらく、

「そうするのだ」

と教えられ、何の疑問も持たずに前例を踏襲しているというのが事実だと思われる。
しかし、お経とは仏教の根本法典であり、なんでも大変にありがたいことが書かれているという。それなのに、せっかく葬式に集まった人たちの理解を拒むお経をなぜ読むのだろうか? いくらありがたい内容でも、一言も理解できないのではありがたくもなんともないではないか。

キリスト教にもかつて、聖書はラテン語、という時代があった。そんなものを読める信者なんてほとんど皆無だった。

「お前たちは聖書を理解しなくてもよろしい。我々の言う通りにすればいいのである」

ラテン語の聖書は聖職者の既得権益を守る強力な道具だったともいえる。

それを打ち破ったのが、私の記憶によればルターである。聖書は信者が読んで理解して初めて意味がある、と考えた。理解することで信者たちの信仰心はますます高まり、神への感謝の思いが溢れるはずだ。そう考えたルターは、ラテン語の聖書をドイツ語に翻訳した(本人がしたのかどうかは記憶にない)。
キリスト教の聖書は、いまでは日本語訳もある。日本の現代語訳すらある。信者なら誰でも手にして読むことができるようになったため、いまだに世界のベストセラーの位置にとどまり続けている。

それに比べて、仏教はいかがか。もとはサンスクリット語であった経典を鳩摩羅什など中国の仏教者が漢訳してものがそのまま日本に渡った。発音は漢音の場合もあれば

ギャーテー、ギャーテー、ハーラーギャーテー、ハラソーギャーテー、ボージーソワカ(般若心経の一節)

のようにサンスクリット語を採用したところもある。まあお坊さんたちは学識を積まれていらっしゃるはずだから意味内容は理解した上でお経を読まれているのだろうが、聞かされるこちらには何も伝わらない。信者は、ただ黙って仏様をありがたがっていればいい、理解する必要などないということか?
これでは、仏教が民衆から見放されていっても仕方がない、と私は思う。

いかがだろう。お経を現代語に翻訳したら? 葬式ではその現代語訳を唱える。

「あたしゃ、ありがたい法華経に帰依するけんねぇ!」

てなものである。これに節をつけて、まあ、気分が乗ればロック風に唱える。必要とあらばエレキギター、ドラムが登場してもかまわない。宗派によって葬式でどの経を読むかは違うが、いずれにも釈迦の哲学の一部は現れているはずで、参列者はそこで釈迦に出会う。ひょっとしたら自らの人生を考えるきっかけになる。

イスラム教を除けば、信仰心は世界的に薄らぐ一方というのが現代である。だから、現代語のお経程度で仏教の信者が増えるとも思えないが、それでも自分が考え抜いたことが多くの人に伝わるのはお釈迦さんとしても嬉しいことではないか?

一言も理解できないことを聞かされるのは苦痛である。耳からの音声信号をキャンセルするため読書に注意を集中したいと思っても許される雰囲気の場ではない。だとすれば、耳に入るお経は理解できる言葉で唱えていただきたい、と私は願うのである。

今年から、ダイニングルームの暖房は床暖を主とすることにした。といっても、床暖房の施設のない借家である。ために、3畳のホットカーペットを買った。それを本日、ダイニングルームに敷いた。
当初考えたのは、フロアタイプのホットカーペットだった。ところが、これ、高い。使ってみようかと思えるものは5万円近くする。もったいない。
ということで、2万円ほどのPanasonic製にした。洗濯が出来るカバー付き、に引かれたのだが、付いてきたカバーは毛布のようなフワフワしたもの。

「食べ物を落としたら汚れるなあ」

と若干後悔しながら、安物買いの銭失い、と己を嘲りながら、本日敷いたのであった。

グッと冷え込んできた。早足で冬がこちらに向かっている。