2019
12.08

さて、昨日の続きを書こう。

らかす日誌

日中途半端に終わってしまった韓国映画の紹介を続ける。

「光州5・18」。
1979年10月26日、韓国大統領だった朴正煕が暗殺された。大統領らに恨みを抱いたKCIA部長の犯行で、韓国では「10・26事件」と呼ばれる。
大統領が急死し、民主化を約束する崔圭夏大統領が後を継いだことで韓国では一時的に政治的自由が回復する時期があり、「ソウルの春」と呼ばれた。戒厳令の撤廃などを求める大規模な街頭デモが各地で展開された。
一方、大統領暗殺事件の捜査を指揮したのが全斗煥・国軍保安司令官だった。全斗煥はその年12月にクーデターを起こし、軍の実権を掌握する。全斗煥は全国に広がる民主化運動にに危機感を持ち、1980年5月17日、非常戒厳令拡大措置を発令して弾圧に乗り出した。その象徴となったのが、地図で見ると韓国の左下の方にある全羅南道の道庁所在地、光州市だった。18日未明、光州市の全南大学と朝鮮大学に陸軍第7空挺旅団が配置された。学生運動を鎮圧するためである。それが光州事件幕開けとなった。

まあ、ひどい話である。映画によると、行き先も知らないまま空輸機で光州に運ばれた兵隊たちが、光州市で闇雲に市民を殺しまくるのである。殺されれば殺されるほど、市民の軍に対する反発は強まり、その空気に押されてか一度は撤退するという噂が流れた戒厳軍だったが、軍の撤退を信じて集まり、万歳(マンセー)を繰り返して喜びを表す市民に対して無差別に銃弾を撃ち込むのだ。
これを受けて市民は郷土予備軍の武器庫から大量の武器を持ちだして武装し、市街戦を展開する。一時は戒厳軍を市街に押し出す戦果を上げた。
韓国政府は「スパイに先導された暴徒」と決めつけ、多くのメディアもこれに従い、光州で暴動が起きていると伝えた。現地で何が起きているか、正しい報道をしたのはドイツ公共放送の特派員だけだった。
何度か交渉が行われたがまとまらず、市民軍は道庁を占拠して戒厳軍の襲来に備えた。しかし27日、数千人の鎮圧部隊が戦車まで持ち出して市内全域を制圧、市民に多数の死者を出して事件は終わった。

映画はこの史実を元に、タクシー運転手、その高校生の弟、タクシー会社の社長(退役軍人で、市民軍の指揮官になる)、その娘(タクシー運転手が想いをかける女性)を猿回しの猿として使い、光州市で立ち上がり、ついには弾圧にねじ伏せられる人々の姿を描き出す。最後に生き残るのは、社長令嬢だけである。

にしても、だ。国民を守るはずの軍隊が国民に銃口を向け、引き金を引く。あってはならない暴挙というほかない。いや、

「だから韓国は」

と言いたいのではない。日本でも米騒動では軍部が荒れ狂う民衆の鎮圧にあたり、少なくとも2人が銃剣で刺殺されている。アメリカでは学生運動鎮圧のために州兵が起用された。軍とは国家権力の究極の暴力装置であり、その銃口は時として国民にも向けられることは歴史から学ぶべきことの1つである。

にしてもだ。たまたま2本の映画を続けて見ることになり、韓国の近代史に思いを致した。
追い打ちをかけるように昨夜は、「国際市場で逢いましょう」という映画を見る順番になった。中身は知らぬままに見始めたが、これも韓国近代史を描く映画だった。
朝鮮戦争で北から南に逃れた一家の物語で、父は多分逃げ切れずに死に、末の妹は行方不明。南に逃れた一家の長男は家族を背負わねばならなくなる。弟の進学資金を貯めようと西ドイツの鉱山に出稼ぎに行ってガス漏れの事故で死にかかる。さらに妹の結婚資金のため戦火が激しかったベトナムへも一儲けしに行き、ベトコンと遭遇して銃撃されて片足を引きずるようになる。
ベトコンを一方的に「敵」として描くなど、やや引っかかるところもあったが、これも戦後の韓国の人々が辿らざるを得なかった不幸な歴史の一幕なのだと思って見た。最後に、アメリカ人の養子となって成長していた末の妹との再会が叶うのがほぼ唯一の救い、といった映画である。

日本の植民地支配を抜け出したかと思った矢先に朝鮮戦争で南北が分断され、経済が復興しないまま長く軍事政権の支配を許した韓国。韓国の人々はなんと厳しい時代の波に翻弄され続けてきたことか。

最近の日韓関係、文在寅政権には苛立ちながらも、民衆は違うと思いたい(文在寅も民衆が選んだのではあるが……)。何とかして手を携えていく手立てはないものか、と考える私であった。