2020
09.20

やや忙しかった。許されよ。

らかす日誌

いま、桐生の繊維関係の職人さんを取材している。準備は夏のうちに済ませたのだが、取材は

「季節がよくなってから」

と先送りしていたのは、自分の体力、気力と相談の上のことだ。

なぜ桐生の職人か。
桐生に来て11年。桐生が織都と呼ばれるように、繊維産業の町であることに疑いを持ったことはない。繊維製品出荷額は年々落ち、いまでは年200億円を切るほどに下がって桐生の基幹産業の地位を滑り落ちているが、それでも中核産業であることは間違いない。桐生が再興することがあれば、繊維産業が機関車の役割を果たさねばならない。繊維抜きの桐生なんて、気の抜けたビール以下の存在である。

とは考えてきたのだが、では誰が織都桐生を支えているのか?
資本家ではない。ここは中小零細企業が集まった町である。かつて町をまとめていた買い継ぎ商と呼ばれる産地商社が豪商として飛ぶ鳥を落とす勢いだったことはあるが、もうかつての存在感はない。石を投げれば社長さんに当たる、といわれる桐生だが、どうやらおおむねの社長さんたちは桐生の現状を嘆くばかりで、先行きが暗い。
さて、織都桐生の支えはどこに?

こういうのを目からうろこが落ちる、というのだろう。とある取材先と話をしていて、桐生の職人さんの技を知った。その取材先は

「桐生の職人には熱がある。彼らを使えば何でもできる」(新型コロナウイルスによる「熱」ではない!)

と口にした。
そうか、織都桐生を縁の下で支えているのは職人さんではないか? 大企業を支えて様々な技術を蓄積しているのが実は中小企業であるのと同じく(大きなメーカーというのは、中小企業の技術を組み合わせて製品にするアセンブリー屋さんにすぎない、と私は思っている)、織都桐生を支えるのは日々技に磨きをかけ続けている職人さんに違いない。
しかし、職人さんにはなかなか光が当たらない。どこのなんという人がどんな技を持っているのか、知ろうとする人はほとんどいない。市役所にもデータはないし、多分ご本人も

「いや、これは当たり前のことだから」

と自分の持つ技の力に無自覚であることが多いのもその原因の1つなのだろう。

「じゃあ、せめてデータベースだけでも作ろう」

私はそう思い決めたのであった。すでに30人ほどのリストを作った。これから取材に拍車をかけねばならないのである。
取材結果は、桐生市内の企業の依頼で続けているWebの原稿にする。そうすれば、データベースになるし、希にはそのデータベースを見て

「この仕事を頼めるかも知れない」

と思いつく衣料メーカーがあるかもしれない。職人の技を残し、磨き続けるには、誰かがその技を買ってくれなくてはいけないのである。

というわけで9月、それも暑さが気にならなくなって始めた取材が、先週重なった。毎日1件。取材をすれば次は原稿に起こすのが流れで、実は先週月曜日から今日まで、そんなことに追われていた。取材に神経を尖らせた日、原稿に心血を注いだ日(どれほど心血を注ごうと、いい原稿が生まれるとは限らないが)に、こうした雑文を書こうとは思わないものである。ために、随分ブランクが続いた。

今日も朝から原稿を書き始め、連載2回分(原稿用紙8枚程度か)を書くことができた。書き終わって、

「ああ、このまま頭を遊ばせようか」

とも思ったが、ご無沙汰が続いていることを考えて、老体に鞭を打って「らかす日誌」を書きついでいる次第である。

で、いま書きつつある原稿だが、本来ならこの「らかす」からリンクを張りたいところである。そこにはすでに130本ほどの原稿をアップしている。筆者としては当然の願いだと思う。

ところが、依頼主からの許しが出ない。この「らかす」の筆者が、自分の会社のHPで原稿を書いていることを知られるのが嫌らしい。
「らかす」の原稿、そんなに素っ頓狂か?

ということなので、お知らせしたいのはやまやまだが、お許しいただきたい。

週明け24日には東京に酒を飲みに行く。朝日新聞時代の先輩を交えた仕事上での会食である。
この先輩、社会部の人(私は経済部)なのだが、なぜか私を可愛がってくれる。時折電話をいただくが、すでに

「大ちゃん、俺、お酒がダメになってね」

というばかりか、頭の老化も進んでいるようで、物忘れが激しい。

「大ちゃん、あの人の連絡先を教えて欲しいんだけど」

と、数日前に伝えたばかりの連絡先を聞かれたときは、思わず

「先日電話でお伝えして、念のためにメモを取って欲しいとお願いしたばかりです。確かメモも取ってもらったはずです」

とお答えしたら、

「えっ、そうだった? ごめんね。そうか、メモを取ったのか。でも、そのメモはどこに行ったんだろう? 悪いがもいう一度教えてよ」

そんな先輩であるが、もともと人間が真っ直ぐだったのだろう。年齢ゆえの健忘症がちっとも気にならない。どんなに間延びした会話になっても、やっぱりいい先輩だなあ、と思うばかりである。

いずれ私も惚けるかも知れない。惚けるのなら、この先輩のような惚け方がしたいなあ、と考える今日この頃である。