2021
01.04

戦闘機のパイロットになるわけではないが……

らかす日誌

半月ほど前から心がけている特訓がある。眼筋の訓練である。

目の前10㎝ほどのところに親指をグッと突き立てる。突き立てる親指は右手でも左手でもよい。右利きのためか、私は右手の親指を常用する。
やおら眼鏡を外し、この親指に両目の焦点を当てる。71歳の両目だからボンヤリとしか見えない。昔ははっきり見えたのに、という悔しさがこみ上げるが、めげずに焦点を当てる。そのまま数を数える。

「1、2,3,……」

10まで数えたら、目の焦点を遠くに移す。そして再び10まで数える。
数え終えたら、焦点は再び眼の10㎝前に突っ立つ親指に戻す。

「1、2,3,……」

これを10回繰り返す。以上が私の特訓である。

毎朝目覚めると、私は血圧降下作用があるというリコピンを大量に含んだトマトジュースを飲みながらリクライニングチェアに座り、朝刊を開く。それが定例の行動である。
まあ、記者時代からの習い性でもあるのだが、これがないと1日が始まった気がしない。

「つまらぬニュースばかりだな」

と独り言を言うのも日常と化しているのは、きっとまともに仕事をする後輩が減っているからに違いない。というのは私の誤解、思い上がりであってほしいと思うのもこの時である。

それはよい。習い性に変化が訪れたのは、かれこれ1年前からだと思う。新聞の活字がかすむのだ。眼には眼鏡をかけている。屋内用、パソコン用の中近用レンズを使ったものだが、これで文字がかすむ。眼鏡を外して目をこすってみても、やっぱり文字がボンヤリする。

「そうか、そんなになってしまったか」

私は年齢とともに視力が衰えることを軽く見ていた。

「老眼? 眼鏡をすればいいじゃん。大丈夫、もともと私の目は正常で、40半ばまでは裸眼視力は両目とも1.2ないし1.5あって眼鏡のお世話になんかならなかったのだから、年をとっても大丈夫だって」

だから現役時代、新聞の活字を大きくすることに批判的だった。新聞のスペースには限りがあり、活字を大きくすればその分情報量が減る。入社時は1行15字だった。それが13字になり、いまや12字時代だ。朝日新聞が13字にしたとき、日本経済新聞は14字を押し通した。

「日経の方が正しい判断力を持っている」

当時の私はそう考えていた。だって、高齢化社会になったって、視力が衰えたお年寄りが増えたって、眼鏡をかければ1行14字の新聞も読めるじゃないか。眼鏡を外せば、14字の新聞が読めない人は13字、12字の新聞だって読めない。何で活字を大きくして活字数を減らさなければならん? 朝日新聞の(読売、毎日などほかの新聞も同じ行動をとったが)幹部連中は眼鏡という文明の利器を知らないのか?

いま思う。私は間違っていた。愛用の眼鏡をかけて、1行12字の朝日新聞を見ても文字が霞むのだ。活字が大きいことはいいことだ! もっと大きくしたらどう?

というのが眼筋特訓のきっかけだった。朝からはっきりとものが見える目に戻したい!

当初は目薬で治そうと思った。ところが、なかなかはっきり見えるようにならない。

「朝起き抜けに目が霞んでさ。もっといい目薬ないの?」

行きつけの薬局で聞いてみた。

「これですよ、これ」

店主は自分の両目の10㎝ほど前に親指を突き立てた。

「そうか、それがあったか」

老眼とは眼球を動かす眼筋の衰えによって起きる視力の衰えである。筋肉は年齢とともに衰えるから、誰でも老いれば老眼鏡のお世話になる。もともと近眼がある人は、

「弱ったよ。近眼で老眼だと、眼鏡をかけても焦点が合うのは1点だけなんだよな。それより前でも後ろでも、ものがぼけちゃう」

という悩みを持つらしいが、私には近眼はない。純粋な老眼だけである。

加えて、年齢のいかんに関わらず、筋肉とは鍛えれば強くなるものらしい。私がスクワットを継続するのもその学説を信じるがゆえである。
つまり、私の目は眼筋を鍛えることによって視力を取り戻す可能性を秘めているのである。

薬局の店主が目前10㎝に親指を突き立てたのは、

「眼筋を鍛えなさい」

という教えであった。私が一目で分かったのは、次のような知識があったからである。

航空自衛隊の戦闘機パイロットには優秀なな視力が求められる。音速を超える速度で飛び回りながら敵機を見つけるには、私のような視力ではまるで役に立たない。両目2.0、あるいは2.5という、遠くまではっきり見える目が武器になる。

だから彼らは、地上勤務の間、時間が出来れば目を鍛える。その時用いるのが、眼前10㎝の親指である。ものすごく近いところを見ようとすると、眼筋は強く縮もうとする。遠くを見るときは力を抜いたのんべんだらりの筋肉となる。力を入れ、力を抜く。その繰り返しが眼筋を鍛えることになる。
さて、こんな話を目にしたのがどんな本だったのか、記憶にはない。だが、本の中身だけはなぜかしっかり記憶にこびりついていたのである。

近くを見て遠くを見る。幸い私は、毎日2度屋外に出てパイプ煙草を楽しむ。我が家は一歩玄関を出れば、遠くに赤城山がそびえる格好の立地である。であれば、「遠く」を赤城山に設定し、「近く」はわが右手の親指にご登場いただく。パイプ煙草のために外に出るたび、私は赤城山と右手親指を活用した眼筋の特訓を始めたのである。近く→遠く、を繰り返すのだ。

まだ始めて半月ほどである。効果があるのかないのか、まだ判然としない。ただ努力はしているのだ。努力は、効果があると信じた方が続きやすい。当分の間、私は特訓信仰を続けることにする。

しかし、である。人生に障害は付きものである。心に決めて始めた特訓に、早くも邪魔者が現れた。何と、である。
桐生市の高台にある我が家は赤城山を一望できる。ということは、冬場の赤城おろしをまともに受ける立地であるということを意味する。目の前10㎝に突き立てた己の親指に必死に焦点を合わせようとする私の2つの眼に、赤城おろしが遠慮なく吹き込む。ほかの皆様より相対的に小さな眼であるはずなのに、風は遠慮なく吹き込む。
これが辛い。風が眼球を覆っている水分を吹き飛ばすのだろうか。それとも、眼球が風が運ぶ冷気に震え上がるのだろうか。目が開けていられなくなるのである。そういうときは潔く特訓を中止するか、何とか我慢が出来そうな弱い風ならウインクを交えながら特訓を継続することになる。

やってみれば、心地よいかどうかは人様々だろうが、眼筋に疲労感が残る。この疲労感が眼筋の強化につながるはずなのだが……。

まあ、やってみて副作用が出るような特訓ではない。視力の衰えを感じていらっしゃるあなた、私の特訓仲間になりませんか?
お互い、戦闘機のパイロットを目指すわけではないでしょうが、ま、これだけのことで視力が改善する可能性があるのなら、やらないという選択肢はないと思いますが。

ご一考をお願いします。