2021
01.26

細雪、とは細かい雪、まばらに降る雪のことだそうです。

らかす日誌

谷崎潤一郎の「細雪」を読み始めた。細かな活字で2段組、本文だけで506ページもある長編小説である。

谷崎潤一郎は耽美派の作家だと言われる。道徳や実用性には目を向けず、もっぱら「美」を求めるのが耽美派なのだそうだ。「美」ねえ……。

桐生は織物の一大産地である。その桐生を「美を産み出す町」と表現したことがある。高齢化が進み、じっちゃん、ばっちゃんばかりで枯れて見えるこの町から、世にも美しい織物、編み物が産み出される。そのアンバランスが面白い。

美の創造者の右代表に挙げたいのが、先頃亡くなった松井ニット技研の松井智司社長だった。享年82歳。2009年に桐生に赴任した私に、生い茂る枯れススキの隙間から、美しい花が顔を覗かせるこの町の摩訶不思議な力を思い知らせたのが松井さんだった。

「えっ、こんなお年寄りがあんなに心を楽しませるマフラーをデザインしたの?」

とは、松井さんに最初のお会いしたときの印象である。もっとも、私も当時の松井さんの年齢に達してしまったが……。

いや、「細雪」を読み始めたのは、松井さんが産み出した「美」の思い出に浸ろうという殊勝な気持ちからではない。単に、順番が来たからである。活字中毒である私は本代を節約するため、遠い昔に買いそろえた「筑摩現代文学大系」を少しずつ読んでいる。全体は横浜の家に置いてあり、そこから数冊ずつ桐生に持って来ているのだが、たまたま今回は谷崎の「細雪」の順番が来たというだけのことである。

まだ10分の1ほどしか読み進んでいないが、大阪・船場の、とてつもなく金持ちの家に生まれた4人姉妹の話らしい。トンと縁がない上流階級の娘たちとは、何と浮世離れした生き物であることかと驚きながら、どうでもいいやん、こんなこと数々のエピソードに悪態をつきながら、この4人のかったるい日々の暮らしを500ページも読み続けられるのか? と自らに問いかける読書である。さて、どうなることやら。

ということを書き始めたのは、ずっと昔にぶつかった、谷崎潤一郎がらみの想い出を紹介しようか、と思い立ったからだ。谷崎潤一郎に触発された記憶である。

名古屋にいるときだった。仕事で、とある老舗企業の会長に会いにいった。経済部記者駆け出しのころである。当時、確か30歳。
会長は70代半ばの方だった。同族企業で業績は順調。会長の出社は小豆色の運転手付きベンツ。自宅は名古屋の最高級住宅地と言われる覚王山だった。

30歳の駆け出し経済記者はお年寄りの取り扱いが不得手である。会長という肩書き、2倍以上の年齢に気圧されて頭がまともに働かない。経済知識に乏しく、社交術も身につけていない。つまり、私は限りなく聾唖に近かった。何を話していいのか、どんな質問をしたらいいのか、トンと思い浮かばないのである。

だからだろうか。同席した秘書氏が助け船を出してくれた。

「会長は最近、読書にいそしんでおられます」

ほう、このおじいちゃんが本を読んでいる。それはそれは。こんな助け船が来たのだから、それを話題にするしかなかろう。

「会長、最近はどんな本をお読みですか?」

年長者への敬語を忘れないのは私の美点である。

うむ」

と会長はおっしゃった。

谷崎潤一郎を読んでてね」

谷崎、潤一郎……、あの、耽美派と言われる? 耽美派とは、スケベの別命だろ? その歳で、谷崎?

まあ、当時の私の谷崎理解はそのあたりであった。そのあたりであったので、私は動揺した。

「この歳で、頭の毛も余り残っていないのに、まだ下半身に関心があるの? それは……」

ま、たったこれだけの話である。
そういえば、その時秘書氏がもう1つ、会長の関心事を教えてくれた。

「会長はゴルフで体調を整えておられます」

はあ、そうですか。ゴルフは金持ちのレジャーだもんね。
ゴルフをまったくやらない私は、この2槽目の助け船には乗れなかった。質問を思いつかない。

その程度で会見室を出ると、その秘書氏が解説してくれた。

「大道さん、ゴルフは体にいいといわれますが、1つだけ健康に悪いことがあります。パットですよ。パットするときは私の年齢でも緊張します。それはご高齢の方も同じで、だからパットをする際に緊張しすぎて心筋梗塞を起こしてしまうご高齢の方が結構いらっしゃるのです」

はあ、でもお宅の会長は健康そうじゃないですか。

「はあ、だから、会長のゴルフには私らがお供をして、パットの際には、会長が打ったら、どこにボールが転がろうと『会長、お見事!』って声をかけるんです。会長は視力が弱っておられますから、ボールがどこに行ったかははっきりとはお分かりにならない。私どもの声でボールはホールに吸い込まれたと安心されて歩き出されるんです。パットをすればボールはホールインするわけですから、パットの際の緊張は緩むと思うんですね」

はあ、会長ゴルフとはそのようなものか。しかし、ボールがグリーンに乗ったら必ず1パットでホールインするのだから、きっと驚くようなスコアを出していらっしゃったんだろう。エイジシュートを何回も繰り返したりして。
といまでは思うのだが、若輩だった当時の私は、ただただあっけにとられるばかりで、

「会長はどれぐらいのスコアで回られます?」

という肝心な質問をする機転がなかったのが悔やまれる。

はー、谷崎潤一郎から始まって、つまらない昔話を書きました。しかし、考えてみれば私も、当時のあの会長の年齢に限りなく近づいております。
この歳で、谷崎潤一郎をひもとくなんて、あの人と同じことをしているのかなあ?

いやいや、私は決して下半身重視で生きている71歳ではないことを最後にお断りしておきます。