2021
02.23

きびしくもアマチュア気質を重じて 1

音らかす

オーディオ装置を整えるには資金が必要です。でも資金ばかりあってもその使い方のうまさが重要なことはいうまでもありません。今回登場の人物はチョッピリからいというもの。オリジナリティとコストパフォーマンスをもっとも重視され、さらに居住性を決してそこなわない。まさにアマチュア稼業のスタンダード版です。(編)

私のオーディオ歴はそんなに古いものではない。けれど、子供の頃から音楽が好きで、昭和14、5年のことだったと思うが、小学校の上級生になった頃に、家が料理屋だったものだから、ひとりっ子の私が家族のものや、女中、仲居、芸者衆がうやうや居たのを避けて、1つ洋間(六畳位)をあてがってもらっていた。最初におやじが買ってくれたのは、日本製で確かコロンビアの手巻きの機械である。ネジの巻きようが足りなければ、たった数分のSPレコードが途中でスロー・ダウンしてしまう。何百グラムもある針圧で、鉄針の振動をテコで直接アルミニウムのダイアフラムに伝えて、それをラッパのようになった木製のホーンを通して音にして出していたのだから、ボリュームも音質も調整することができなかった。

それでも音楽は聞けたのである。現在と違って、戦時中では音楽会もさほど頻繁ではなく、今のように、ジェット機で簡単にやって来られないのだから、フルトヴェングラーやオイゲン・ヨッフムなど、SPレコードで聞く以外に手がなかったのである。だから少々音が悪くても、あるいは針音がうるさくても、すこしも面倒がらずに、手巻きの蓄音機で箱の中に仕込んであったホーンを通って出てくる音に、聞き入ったものである。

いつの頃だったか、我が家にも電蓄が置かれるようになった。機械好きのおやじが、自分の楽しみのためにもと思って、買い込んで来たのに違いない。

とたんに音が良くなった。少なくとも、今までのキンキンした音と違って、スピーカから出る音である。大いにダイナミックな音だったことを今でもはっきり覚えている。しかもゼンマイを巻く必要がない。背が高いために座っていてはレコードが掛けられないので、4、5分毎に立って行って、盤を裏返したり、取り替えたりした。大してオックウではなかったが。

その内に戦争が盛んになって、若者はどんどん中国へ送られ、香港、シンガポールと戦線は拡大されて行った。当然のことながら物資不足である。レコードなんて贅沢品は真っ先に入手困難になって行った。ボール紙の両面にシェラックらしきものをぬり付けて、プレスした盤である。誤って、傷を付けたら、ポン、ポンと大きな音がして、中から紙のアンコが出てくるようになった。その頃は、針は全部鉄であったため、戦需品となり、竹の針を、アポロン・カッタで何回も切って鳴らさなければならないようになって来た。パラフィンで煮ると音が良くて、長持ちするなんて智恵を身に付けたのもその頃である。もちろん、当時の機械から出てくる音は、生の音楽のそれとは大いに違っていた。と言って、こんな音しか聞けないのならレコード音楽はつまらないという人もあまりなかった。不思議なもので、いつか聞いた生の演奏会の気分さえ、雑音とともに出てくる再生音から味わったのである。

戦争がますます深刻になってきて、規模だけが大きくなり、私も世間の例にもれず、第2乙種合格で戦に駆り出されてしまった。終戦の年である。全くレコードどころではなかった。あったとすれば軍歌だけである。「父よ、あなたは強かった」何度も聞かされものである。言って見れば、贅沢品とされたレコードも軍閥の役には立ったわけである。私が戦争に駆り出されてから、1年もたたない内に、戦争は終わった。

終戦当時はもちろんレコードどころではない。食うことが、生きていくことが先決だった。非常に先の見通しのきくある評論家が、手持ちの何万枚かのSPレコードを、どこかの団体に寄贈して大いに男を上げたのもこの頃である。蓋し、先見の明と言うべきであろう。ステレオ・ハイファイの今日、SPレコードなんてものは無用の長物の類で、一部の懐古趣味の人々の内で、「音は悪かったけれども、大いに音楽的だったよ」という茶飲み話になる位のものである。

もちろん、我が家も焼けてしまった。と言っても、復員して来たら、焼けていたのである。電蓄も、レコードも灰になってしまった。田舎に疎開してあった書籍だけが残ったのである。

米軍の通訳以外に、私の性に合った職業もなかった。数年の後、貿易再開と共に今の職業に就くまで、通訳をしながら、下宿、2階住まいで、レコードを聞くことなど考えても見なかった。ときどき、音楽喫茶でクラシックに接する位のものだった。LPレコードがぼつぼつ私の目に触れるようになったのは、そのころだった。田園交響曲が、LPレコードの裏表に収められている。サファイア針で何度でも掛けられるようになった。