2022
04.02

私が学校で学んだ明治維新も勝者が造り上げた歴史であったらしい。

らかす日誌

歴史とは、勝ち残った側の視点で作りげられるものであるとは、少し歴史の本をひもとけば指摘されていることである。
なるほど、中国の歴代王朝はそれぞれに歴史書き残したが、権力を握った王朝が自らを貶めるような事実を後代に伝えるはずはない。歴史を辿る者はそこに注意して資料を読み解かねばならないとは、まあ、現代歴史学の常識である、程度のことは知っていた。

近代日本の幕開けである明治維新も、江戸幕府を倒した薩長の視点で書かれた歴史である。そうでなければ、維新のヒーローが薩長からだけ出てくる(勝海舟を除く)はずはない。西郷隆盛も大久保利通も高杉晋作も桂小五郎も、きっと後の人に知られたくないことをたくさんやったに違いない。坂本龍馬に至っては、司馬遼太郎が「龍馬がゆく」を書くまではほとんど忘れ去られていた人物であるとは、何かの本で読んだことである。

そう思っている私も、

「ここまで騙されていたか」

と驚いたのは、長州藩の奇兵隊である。
幕末、長州は農民、町人にまで刀を持たせて奇兵隊を組織し、外国艦隊からの防備に当たらせた。第2次長州征伐で幕府軍を圧倒した戦闘にも参加した。士農工商といわれた身分制度にとらわれず、武士階級もそうでない階級も力を合わせた奇兵隊は、身分制度撤廃の先駆であり、明治維新の立役者の1つである。長州はこうして身分差別のない近代の幕を開けたと教わった記憶がある。だから明治維新は素晴らしい革命だったと。

ところが、である。
実は奇兵隊は、そんなに立派なものではなかった、と教えてくれたのは、松下竜一さんの著「疾風の人」である。その一節にこうあった。

この時期(明治初期)、近代化を急ぐいずれの藩も、おもに財政上の理由から兵力の整理をせざるを得なくなり、長州藩でも2年11月に常備軍4箇大隊を編成するにあたって諸隊の精選方針が出されたが、選ばれたのは士族であり、帰農を命じられた庶民兵約2000名はそれに服さず、脱隊して三田尻宮市へ走り、叛乱を起こしたのであった。彼ら庶民兵にしてみれば、己が命を賭して維新政権を誕生せしめたのに、一旦不要となれば弊履のごとく捨てられるのかという憤激がたぎっていた。脱走兵の叛乱に触発されて農民も一揆を起こした。年貢軽減どころか、幕政時代以上の苛酷な賦課に、もはや御一新への幻想は消えていた。

何のことはない。武士だけでは戦力が足りないとみた長州藩が庶民を騙して奇兵隊を組織し、利用できるだけ利用した後はポイ捨てしたのである。
無論、この時、奇兵隊を組織した高杉晋作はすでに世にいない。だから

「高杉晋作は本当に四民平等の世を志していた。彼が生きていたらそんなことにはならなかった」

という解釈も成り立つ。ひょっとしたらそうなのかも知れない。
そうであったとしても、四民平等の思想は高杉晋作に止まったわけで、彼には周りの武士たちの思想を、近代に変える力はなかったことになる。リーダーとしての力不足と言わざるを得ない。

それに、だ。維新が終わると、江戸時代以上の重税を課すとはいかがなものか。
結局、明治維新を経ても旧武士階級は簒奪する階級であることに変わりはなく、その簒奪の仕方がさらにひどくなったとすれば、奇兵隊に参加した庶民からすれば、悪政を正すために立ち上がったのに、終わってみればさらにたちの悪い権力者を産み出しただけだったことになる。まさに踏んだり蹴ったりである。明治維新とは武士階級の中での権力争いに過ぎず、当時江戸幕府も海外に視察団を派遣して西洋に学ぼうとしていたことを見れば、明治維新を切っ掛けとした日本の近代化は

たまたま

起きただけだったのかも知れない。あるいは、明治維新が起きたにもかかわらず近代化したとも言いうるような気がしないでもない。

鳥羽伏見の戦いで幕府側が勝っていたら、その後の日本の歴史はどうなっていただろう? 歴史に if はないことは重々承知だが……。

今日は、最近物忘れが多くなった私の記憶にこの事実を刻み込むために書いた。うむ、これで忘れることはないと思うが、やっぱり忘れてしまうかな?

桐生は寒の戻りである。暖房用の灯油があとタンク半分しかない。もう1タンク必要かどうか迷っている私である。