2022
09.08

ショーン・コネリーは偉大なる大根役者ではないかと思うが、いかがだろう?

らかす日誌

この10日余りの間に、ショーン・コネリーの映画を20数本見た。保有する映画の仕分け作業(毎夜の映画鑑賞ともいう)が人物別のところに至ったからである。アラン・ドロンから始まってアル・パチーノ、アンソニー・ホプキンス、ウディ・アレン、エルヴィス・プレスリー、オードリー・ヘップバーン、クリント・イーストウッド、グレゴリー・ペック、ケヴィン・コスナー、ジーン・ハックマン、ジャック・ニコルソン、ジャック・レモン・ジョージ・クルーニーと進み、ショーン・コネリーにたどり着いたわけだ。

ちなみに、今日からはシルヴェスター・スタローンの巻が始まり、継いでスティーヴ・マックイーン、スティーヴン・スピルバーグ……、と続いていくのだが、それは先のこと。今日はとりあえず、ショーン・コネリーである。このフォルダーに入っていたのは、007シリーズや、アカデミー賞を受賞した「オリエント急行殺人事件」「レッド・オクトーバーを追え!」などを除いた作品である。

見続けて思った。

「この人、どんな役をやってもショーン・コネリーにしか見えないな」

ショーン・コネリーといえば、007である。ショーン・コネリーが退いた後も007シリーズは制作され続けている(最新作でボンドが死んじゃったので、もう終わりか? それとも生き返る?)が、総じてつまらないとはよく聞く話で、私も同意見だ。だから、この人にはジェームス・ボンドのイメージがこびり付いているのも、何をやってもショーン・コネリーにしか見えないことの一因ではあると思う。

しかし、なのだ。大泥棒を演じても(「ショーン・コネリー/盗聴作戦」「わらの女」「大列車強盗」など)、ジャーナリストを演じても(「シークレット・レンズ」)、刑事を演じても(「ライジング・サン」)、妻との間に過去の問題(もちろん、女性がらみ)を抱えた初老の男を演じても(「マイハート、マイラブ」)、そこにはやっぱりショーン・コネリーしかいない。全ての人物がボンドに見えてしまう。

「ボンドさん、MI6はずる休みしてここにいるのですか?」

といいたくなるほど、ボンドなのだ。

ショーン・コネリーが演じる男たちは、常に自信に満ちあふれている。「マイハート、マイラブ」では40年連れ添った妻が、夫にかつて愛人がいたのではないかとの疑惑を持つ。問いただす妻にショーン・コネリー演じる夫は

「確かに彼女を愛していた。愛していたからセックスはしなかった」

としれっとした顔でいう。
おいおい、旧悪を妻に暴かれ掛けた男が、そんなに余裕たっぷりの言葉を口にするか? ま、実は愛したがしなかった、ということがあとでわかるのだが、それにしても、

「あんた、昔あの女とやってたでしょう!」

と迫る妻に、

「ああ、確かに彼女を愛していた。しかし、しなかった」

としれっとした顔でいうか? 普通。

彼の演じる大泥棒も、見つかるかも、逮捕されるかも、という恐怖感とは無縁である。練り上げた計画がうまく進まないはずはない、と信じきっている。プランAが現場で失敗すれば、たちまちプランBが動き出す。そして、プランCだって用意されているのだから、もう全くジェームス・ボンドの世界である。そして、だから、と盗み出しに成功する。正義の人を演じても、悪人を映じても、ショーン・コネリーの前には、成功の1本道しかない。

まあ、アーサー王を演じた「トゥルーナイト」では、王妃の心を別の男(その名をランスロットという)に奪われて苦悩するシーンがあり、ついには反逆者に殺されてしまうので例外とはいえる。しかし、苦悩するシーンはショーン・コネリーには全く似合わないし、それでも最期は王妃の腕の中で満足した表情で死んでいくのだから、やっぱり成功の1本道しかないともいえる。

マーロン・ブランドが「ゴッド・ファーザー」で演じたドン・コルレオーネのような幾層にも悪と愛が重なった重厚な役柄はショーン・コネリーに演じられそうもない。アル・パチーノが「ディアポロス 悪魔の扉」でやった悪魔の権化のような役も無理である。「ハンニバル」のレクター博士役も、「フレンチ・コネクション」の刑事ポパイの役もはまらない。ショーン・コネリーの演技の幅は極めて狭いとしかいいようがない。

演技の幅が狭い。それは大根役者と呼ばれる第1歩だろう。だが、第1歩で踏みとどまっているのがショーン・コネリーだともいえる。日本の映画界に多い凡百の大根役者と違うのは、その存在感である。難いがでかいだけではない。そこにいるだけで絵になる。そんな類い希な特質をショーン・コネリーは生まれつき持ち合わせているように思える。

その特質を引き出したのは、やっぱり007である。この役が当たって彼はトップスターになった。幅の狭い演技しかできない役者は、要は使い方である。ショーン・コネリーに合う役を用意すれば、その存在感は無限の力となる。一連の泥棒もの(「ザ・ロック」「エントラップメント」)などは007の延長上に用意された役柄で、はまり役ともいえる。

そして、私が知る限り、007とは違ったショーン・コネリーの魅力を引き出したのは、私が大好きな「小説家を見つけたら」である。世を捨てた大作家・フォレスターの重厚な出で立ち、振る舞い。才能に溢れ、フォレスターを慕い寄ってくる黒人少年ジャマールに刺激されて再び社会に戻るフォレスターの思考、行動を彼以上に演じ切ることができる男優を思い描くのは難しい。これも、彼の持つ存在感のゆえであると思う。

馬鹿とハサミは使いよう、という。大根役者だって使いようだろう。しかし、そこにいるだけで場の空気を変えてしまう存在感を持つショーン・コネリーは、使いわれるだけの大根役者ではない。余人をもって代え難い魅力を持った大根役者だと、私は思う。

ということで、私は偉大なる大根役者、という敬称をショーン・コネリーに捧げたいのだが、皆様のご賛同は得られるだろうか?