2022
09.18

再び私は、夏目漱石全集に取り組むのでありました。

らかす日誌

本日、横浜の次女宅から荷物が届いた。中身は、頼んでいた「夏目漱石全集」全15巻と、高橋和巳の本である。

ご存知のように、横浜の自宅にはいま、次女一家が住まっている。私の蔵書の大半はこの家に置きっぱなしである。しばらく前までは、時に応じて私が横浜まで出かけていたので、蔵書の中で再読したいものはその都度車に積んで桐生まで持って来た。ところが今年は、中学受験を目指す璃子が小学校6年であり、受験勉強が最後の追い込みだ。そのような事情を抱えた家庭に、私は邪魔者である。

ということで、このところ横浜にはすっかりご無沙汰である。そのため、前回横浜に行ったときに桐生に持ち帰った「ローマ人の物語」「松下竜一 その仕事」を読み終え、いまは「漱石とその時代」全5巻を読み進めている。

このところ新刊の本に余り手を出さず、蔵書の中で記憶にある本を読み返している。新刊で読みたくなる本があまりなくなったからだ。書店を訪れても手に取りたくなる本がほとんどない。最近の作家先生方が、あまり面白い本を書いてくれないことは、毎年2回発表される芥川賞の受賞作に、

「なるほど」

と思える本が見当たらないことでもおわかりいただけるだろう。そういえば、芥川賞で

「これは凄いな」

と思ったのは金原ひとみ作の「蛇にピアス」が最期だった。この作と同時に芥川賞を取った「蹴りたい背中」(綿矢りさ)は余り感心せず、

「りさちゃんの方が美人なのに、惜しい!」

と感想を漏らした記憶がある。

だから、蔵書の中から読む本を探すことになるのだが、前回持ち帰った江藤淳著「漱石とその時代」は素晴らしい漱石研究で、読むと、どうしてもまたまた漱石ワールドに浸りたくなるのである。前回、「漱石とその時代」といっしょに漱石全集を持って来なかったのは不覚であったというしかない。

で、横浜に行くことが途絶えた今、読み終えた「ローマ人の物語」「松下竜一選集」を宅急便で横浜に送り、漱石全集と高橋和巳の本を送るように次女に依頼したわけだ。

届いた本を今日、桐生の書架に並べた。もともと古本で買った漱石全集は一見古びているが、古色を漂わせているのは箱だけで中身は新品同様である。まだ「漱石とその時代」は3巻までしか読んでいないので、漱石に手が伸びるのは10月になるだろう。楽しみである。

一方、高橋和巳は大学時代の愛読書である。京都大学助教授で中国文学を研究していた彼は在学時代から小説を書き始め、体制に抵抗して滅びの道を辿る人物を主人公とした作品を書き連ねた。国家権力との戦いのさなかにあると信じて疑わなかった当時の左翼系学生の愛読書になって大学の生協に平積みされていたのを見て、

「ほう、みんなはこんな本を読んでいおるのか」

と手に取ったのが、記憶によると「憂鬱なる党派」(いや、「我が心は石にあらず」だったかも知れない……)で、期末試験の前夜に読み始めたら止まらなくなり、朝の4時、5時まで読みふけって寝ぼけ眼で試験会場に臨んだ。私も心情的には左翼系学生の一人だったのである。

高橋作品にすっかり魅せられた私は、その後、

高橋和巳

の名が出て来る本は、ほとんど購入した。当時はインターネットなどという便利な道具はなく、彼がどんな作品を書いているのかも書籍からしかわからなかったから、網羅できたわけではない。しかし、その知性に満ちた作品の数々は、

「漱石を今の時代に繋ぐのはこの人しかいない」

と私に思わせるほどの力を持っていた。

余談だが、「邪宗門」の巻末の解説で、吉本隆明さんが、

「この本は知識人の大衆文学である」

と評していたのが記憶にこびり付いているのは何故だろう?

高橋和巳は14971年5月、結腸ガンで亡くなった。当時福岡に住み、新聞も購読していなかった私が彼の死を知ったのは、山下英生君が教えてくれたからである。山下君は同じ高校の1年後輩なのに、何故か大学では私と同じ学年になり、さらに私より1年早く大学を卒業した不思議な人である。

山下君が高橋和巳の死去を教えてくれた日、我々2人は

「残念だなあ。通夜でもするか」

と私の下宿で酒を酌み交わした。

残念。そう、実に残念だった。高橋和巳は当時、「白く塗りたる墓」という新作を「人間として」という雑誌に連載し始めたばかりだった。それまでは否応なしに権力と闘わざるを得ない立場に追い込まれる男を主人公とする小説が多かった高橋和巳が、この小説ではテレビマンを主人公に据えた。いってみれば社会のまっただ中で生きる人間を描いて新しい境地に挑んだ作品が未完に終わったからである。
報道機関に身を置けば、権力を監視する責務を負う。しかし、革命運動に身を投じているわけではなく、あくまで1市民として権力と対峙する人間を描こうとしたのだろう。最終章まで読んでみたかった本なのである。

いつものように話がそれたが、今日、高橋和巳の本も段ボール箱に詰まって届けられた。ところが、なのである。ないのだ、ほとんどの小説が。
次女には

「高橋和巳と書いている本は全部送ってくれ」

といってあったから、届いた8冊が我が全蔵書ということになる。そこには「憂鬱なる党派」も「我が心は石にあらず」も「邪宗門」も「悲の器」もない。読んだ記憶はあるのに本がない。とういうことは、誰かに貸してそのままになったのだろう。今になれば、いや多分貸して3ヶ月もすれば、誰に貸したかは記憶から消え失せる。まったく、本は人に貸すものではない。

しかし、なければ困る。仕方なく、Amazonで古本を4冊注文した。月末までには届くようだから、10月は漱石と高橋和巳を並行して読むことになるのだろう。

しかし、Amazonで注文しながら、時代の推移を実感した。安いのである、古本が。ということは高橋和巳の本を売りたい人はたくさんいるが、買いたい人は少ないということである。

「そうだよなあ。この時代に高橋和巳が描き出す暗鬱な世界に浸りたい人はいないんだろうなあ」

と思いつつ、でも、なんだか時代が急速に薄っぺらいものになってしまったような嫌な気分もする私であった。