2022
11.22

桐生えびす講、終わる。結論、疲れた……、の2

らかす日誌

20日、日曜日。
1週間前、この日の天気予報は90%の確率で雨だった。数日前、確率が50%に落ちた。朝予報を見ると、夕方から雨とあった。気温は総じて低めである。

「朝、起きることができるか?」

と懸念しながら布団に入った前日夜、何故か寝付きが悪かった。ウイスキーを流し込んだのになかなか眠気が訪れず、眠りについたのは恐らく2時か2時半である。そして目が醒めると8時を過ぎ。前夜の懸念にもかかわらず、立ち上がってトイレに向かうことができた。最初の難関はクリア!

しかし、だ。が痛い。腰の中央部、左右に筋肉がガチガチに固まり、その固まりは臀部の左右にも及んでいる。ふくらはぎはパンパンだ。

「おい、まともに歩けるのかよ?」

という状態だ。

朝食を済ませてシャワーを浴び、桐生西宮神社に駆けつけたのは10時少し前。10時から神事が予定されており、公式カメラマンである私の出番である。心配した歩行能力も、ここまでは何とか保つことができた。よくぞ61段の階段を上りきったものである。

神事が済むとあとは比較的暇だった。ということは、再び鯛におみくじを抱かせる作業と、組み上がった鯛みくじをディスプレーする作業をこなす。売り子さん(といってはいけないか)というか、鯛みくじなどを担当する世話人が他の仕事をしていれば、私が300円を受け取り、

「はい、お好きな鯛をどうぞ」

と、とうとう販売員(この言葉もいけないんだよな。神社は面倒くさい!)までこなす始末である。

昼食時、面白い会話を耳にした。会話の主は、中学校で数学を担当していた世話人と、アルバイトで巫女さんを務める女子大生である。

「君たちね、何を発言するにしても、少し頭で考えてから口に抱いた方がいいよ。君たちの話を聞いていると、反射的に言葉を返しているように思うんだが」

「ええ、しゃべるときに考えたりしませんよ」

「だったら、心に浮かんだことをそのまま言葉にしているわけ?」

「そうそう、そうなんです」

「でも、男の子を好きになったら、好きだって言っていいのか、もう少し待った方がいいのか、言うにしてもどんな言葉うぃ使ったらいいのか、考えると思うんだけどな」

「私、思ったらすぐい言っちゃいます。すぐに告るんですよ」

「……」

「ねえ、数学の先生だったんですよね。だったら、恋の方程式を教えてくれませんか?」

「えっ、といわれても……」

「だって、方程式があったら便利じゃないですか。正しい答えがすぐに出るだろうし」

「……」

横で聞きながら、私は思った。
そうか、次から次へと気の向くままに男の子に告っているこの女の子が恋の方程式なるものを欲しがっている。ということは、告っても成功率は極めて低いのだろう。成功率が高いか、たまたまうまく行った相手といま付き合っていれば方程式など要らないはずだ。ま、成功率の低さは、今の会話だけでも理解できる。なるほど、この娘に告られてもね……。

もちろん、以上は私の頭の中に止まった言葉である。それを口にすることを止める世間知が備わる年代に私は達しているのである。あ、時々なくすこともあるが……。

それはそれとして、午後のハイライトは桐生市生まれの神楽太鼓奏者・石坂亥士さんの演奏である。毎年聞くが、大太鼓とバチで奏でられる演奏は見事の一言に尽きる。

まず石坂さんが独奏し、途中から福まきが始まるのが流れだ。福まきが終わっても演奏は続く。耳に心地よい。ところが、なのだ。石坂さんが演奏を始める前から神楽殿の前に集まっていた参拝者たちは、福まきが終わるとゾロゾロと神楽殿前を離れるではないか。石坂さんの演奏は続いているのに、である。残って最後まで聞く参拝者は本の数人しかいない。
モノの価値が分からないのは実にもったいないことである。しかし、これだけは当人たちの問題だからなあ……。

午後3時頃からポツポツと雨が落ちてきた。それでも参拝客は続いた。夕方になると傘を差した姿が目立ち始めた。それでも参拝客は切れず、鯛みくじの売れ行きも落ちない。えびす講も2日目ともなると新しい被写体に乏しく、私はほぼ鯛みくじ専従職員として働いたのであった。

ということを続けて、この日の歩行数は約7000歩。前日より減ったが、腰と足はさらに存在感を増し、石段の上り下りが辛い。

「疲れたよね」

「腰が痛くて」

社殿ではそんな会話が続く。えびす講を仕切る世話人は、最若年でも50代。最年長は80歳を遙かに超す高齢者集団である。そんな言葉が飛び交うのは不思議でも何でもない。122年続く桐生えびす講は、恐らくそんな言葉が数万回も交わされながら続いてきたのである。皆様、心して参拝して頂くようにお願いする。

流石に午後8時を回ると参拝客もまばらになった。雨は降り続く。こちらの疲れはピークに近づく。

「別にたいしたことをしているわけではないのにね」

高齢者集団はそんな言葉でお互いを慰め合う。皆疲れているのである。

見切りをつけて社殿を出たのは午後9時過ぎ。前日に増して重くなった身体を何とか駐車場まで運んで帰宅したのは9時半頃だった。シャワーを浴びて映画鑑賞。ウイスキーを引っかけて布団に入ったら、この日は時ならずして眠りに落ちた。疲れた身体とはそのようなものだろう。

終わった、終わった、えびす講2002。さて、腰が普通の状態(といっても慢性腰痛だが)に戻り、疲れが抜けるのはいつか。だんだん疲れが抜けにくくなっているのを時諾する私であった。