2023
01.09

我が血筋にも、がんがあることが分かった。そうか……。

らかす日誌

九州・田川の叔父が亡くなった。この4日のことである。94歳。大往生といっていいだろう。
高齢だったので気になってはいたが、元日に受け取ったいとこ(亡くなった叔父の次女)からの賀状には

「父さんは、娘の私たちのことは忘れてしまいましたが頑張っています」

とあって喜んでいた。そこへの訃報である。虚を突かれたような気がした。

桐生からすれば、かつての産炭地、筑豊の田川市は遠い。葬儀に参列するのは断念して、大牟田の弟に御霊前を出しておいてくれるよう頼んだ。葬儀も済んだだろう今日、叔父の長女に電話を入れた。晩年の叔父を知るためである。

全く知らなかったが、叔父は2年ほど前から入院していたのだそうだ。そして、ここ1年あまりは、2人いる娘の顔が分からなくなっていたという。極めて理知的だった叔父も、90歳を超えるとそうなるのか。何だか、私の晩年を垣間見たような気になった。

「それで、やっぱり老衰かい。それとも何かの病気が死因?」

従姉妹は淡々と説明してくれた。
なんでも、昨年暮れ頃、高熱が続いたらしい。治療の甲斐あって一旦熱は下がったが、年明けに再び高熱が出た。

「多分、前立腺がんからきた熱だろうって、お医者さんはいっていた。それで亡くなったらしいわ」

前立腺がん? いつから?

「うーん、10年、いやもっと前だったのかな。ほら、お父さんは医者が嫌いでしょ。だから健康診断なんかほとんど受けなかったのよ。それが10年ほど前かな、おしっこが出なくなって、流石に入院したの。その時の検査で見付かって」

あの叔父が前立腺にがん病巣を持っていた。前立腺がんは進行の遅いがんである。だから、高齢になって見付かると、治療で体力をすり減らすのを避け、放っておくこともある。叔父はそのケースだったのだろう。

しかし、驚いた。これまで私は、私の血筋にはがん患者はいないと思い込んでいた。祖父母、両親も叔父(伯父)、叔母(伯母)も、がんで亡くなったという記憶はない。我が親族で、がんが死因だと知ったのは今回が初めてである。

明日は、年末に受けた前立腺の検査の結果が分かる日だ。我が家系にがんなし、と信じ込んでいた私は、明日はいい結果が出るのではないかと7割ほど思い込んでいた。しかし、伯父の死因が前立腺がんだとなれば話は変わる。叔父と血のつながる私はがん病巣を持っているのか?

ま、それでも、ほったらかしにしていたのに叔父は94まで生きた。私はがんが見つかれば、群馬大学病院で重粒子線の照射を浴びることになる。重粒子線治療は私の周りでも実績を挙げている。素直に考えれば、例えがん病巣が見付かっても私は叔父以上の高齢まで生き続ける可能性は高い、と1人勝手に考えている。

とはいえ、やっぱりがんなどない方がいい。1審のPSA検査で敗訴したために臨んだ第2審の判決が明日出る。さて、結果は勝訴か、それとも敗訴か。
敗訴ならば、最高裁に上告し、重粒子線治療を受けることになる私である。

以上が、本日私が置かれている状況である。これだけでもいいのだが、折角だから亡くなった田川の叔父のことを書いておきたい。

どこかで書いたと思うが、私の父はアル中だった。何度か精神病院に入院して治療したが、病院を出て来るといつかズルズルと元に戻った。酒を飲んだ上、睡眠薬まで服用して50ccのバイクを運転中、トラックに巻き込まれて片足が不自由になるまで、アル中親父であった。

恐らく、精神的に弱い人間だったのだろう。目の前に何かが立ち塞がると、それを乗り越えようとするより逃げ出す方法を考えた。それが酒だった、と私は思う。当時としては珍しい大学卒であっただけに、

「つまらぬ男だった」

としか父のことを表現できない。

逃げるだけなら周りに迷惑をかけることも少なかろう。しかし、父は酒に逃げながら、酒の勢いで暴力をふるった。それも他人にではなく、家族に対してである。いまでいえば、ドメスティック・バイオレンスだ。弱から他人とは立ち向かえない。その鬱憤までもが家族に向かって吐き出されたのだと思う。
そして、子どもとの関係を育てることができなかった。私はまともに父と会話した記憶がない。2人で銭湯に行っても、父は私の前をずんずん歩く。私は駆け足になりながら父の後を追う。そんな親子だった。

だから、私は父の味を知らない。自分に子どもができたとき、

「父を知らない俺は父親になれるか?」

と恐怖心を持ったのは、そのためである。幸い、私の懸念を他所に、3人の子どもは立派に育ってくれた。ひょっとしたら、親はなくても子は育つ、ということだったのかも知れないが。

田川の叔父に叔父・甥の関係以上のものを私が求めたのは、恐らく、私が精神的に父親不在だったからである。大学に入って福岡で下宿すると、田川で工業高校の教師をしていた叔父の家をしばしば訪ねた。2日、3日と泊まり込み、若さ故に沸き上がってくる数々の疑問をぶつけた。

叔父は、母の弟である。若い頃共産主義に惹きつけられ、日本共産党員として活動していた。党の分裂騒ぎに巻き込まれて党籍を剥奪されて共産党とは袂を分かったが、その後も進歩的な考え方は持ち続けた。

私が叔父の元を頻繁に訪れたのは、恐らく、大学で学生運動が盛り上がっていたからである。ベトナム戦争があり、1970年の日米安保条約改定があった。時代に敏感な学生たちは、ベトナム人民を殺し続ける米軍に怒り、米国に従属してベトナム人民殺す殺すことに日本が加担する象徴としての安保条約に反対した。そして私も、そんな学生運動の片隅にいた。

だが、大学生とはいえ、分からないことはたくさんある。なかでも、自分たちは正しいはずだと思っている学生運動についても、よくよく考えると分からないことが頻出する。
そんな疑問が積み重なると、私は田川行きのバスに乗った。叔父は進歩的な考えの持ち主である。叔父に疑問をぶつけ、自分なりの解答を手に入れたい。

もう半世紀以上前のことだ。私がどんな疑問をぶつけ、叔父がどんな答を返してくれたか。情けないことに、ほとんど頭に残っていない。

ただ、1つだけ鮮明に覚えていることがある。叔父が話してくれたことだ。

卒業して自衛隊に入るという教え子がいた。いまでは防衛庁が防衛省に昇格し、数々の災害派遣で市民権を確立した自衛隊だが、当時は違った。軍隊とは権力の暴力機構であり、人民の敵であった。

進歩的な考えを持つ叔父は、当然人民の一員である。自民党政権を批判し、いずれは人民が権力を手にしなければならないと考えるのが進歩派である。その叔父の教え子が、人民の敵とみられていた自衛隊員になる。

「でな」

と叔父は話し始めた。

「俺はその子の目を見ながら、1つだけ質問した。君は自衛隊員として、これから武器を手にする。もし、国民が立ち上がって権力を打倒しようとしたとき、君は国民に銃を向けるか? と聞いたんだ」

恐らく、その時の叔父は真剣だったはずだ。

「そしたらな、その子は『私は、絶対に国民には銃を向けません』と答えてくれた。それで、『ありがとう』といって握手をしてその子と分かれたんだ」

そんな叔父だった。こんな男が私の叔父でいてくれたことに、心から感謝した。そしていつしか、この叔父に、私の理想的な父親像を見出していた。

大学3年の終わり、いまの妻女殿と私は結婚した。その前、私は妻女殿を田川に連れて行った。この叔父にだけは紹介しておきたかった。
大学を出て朝日新聞に入った後は、なかなか田川まで足を伸ばす時間がなかった。最後に尋ねたのは、大牟田の弟と2人だった。奥さんを亡くして独り暮らしだった叔父の家に、結婚して田川市内に住む2人の娘も来て私たちをもてなしてくれた。あの時、土産にしたのは、確か福岡で買った日本酒である。あれ、あまり美味くなかったなあ。でも、あれはいつのことだっけ? 10年前? 15年前?

記憶はいつか薄らぐ。寂しいことである。