2023
05.18

私と朝日新聞 前書き

らかす日誌

しばらく原稿をサボっていたら、刺繍作家の大澤紀代美さんからショートメールを頂いた。

「お体、大丈夫ですか? ラカスが大分ご無沙汰なので…」

大澤さん、「ラカス」ではありません。「らかす」ですって!
ま、それはそれとして、私の前立腺がんのことを気遣っていただいたのだろう。

しかし、前立腺がんというのはちっとも症状が現れない病である。思い返せば10年ほど前、

「尿が出にくいな」

と思ったことがある。膀胱から出る尿道は前立腺の中を通っているから、いま考えればあの頃からがん細胞が増殖を始め、前立腺が肥大して尿道を圧迫していたのだろう。
そんなことは露知らぬ私は

「ほほう、歳を取るとはこのようなものか」

と一人納得し、知り合いの漢方薬局の勧めで八味地黄丸の服用を始めた。すると楽に排尿できるようになったので、八味地黄丸は手放せない薬になっていた。
がんが見つかってからは、前立腺肥大を抑える処方薬を1日1錠服用し、4周に1回、ホルモン注射を受けて男性ホルモンの働きを抑えている。この処置で排尿障害は消え去り、いまは八味地黄丸は使っていない。使わなくても何の問題もない。

そこでこんな返信を書いた。

「お気遣い、ありがとうございます。いまのところ体の方は何ともありません。前立腺がんというのはそんな病気らしいのです」

とはいえ、「らかす」に新しい原稿をアップしないと、読者の方々に要らぬご心配をかけてしまうとすれば、やはり書き続けなければならない。さて、ネタ不足のいま、何を書く?

と考えて思いついたのが、朝日新聞である。42年勤めた会社と私のことを書いてみるか。

朝日新聞記者になると、末は経営者になるか、専門記者になるか、である。
経営者になるのは記者でありながら優れた経営感覚、メディアのトップとしての見識を兼ね備えた人々である。現実には結構な数のヒラメ族が役員フロアにたむろしていたような気はするが、立て前としては経営センス、ジャーナリズムに責任を持つ人であらねばならぬ。
私はその選には全く引っかからなかった。

では専門記者は?
特定の分野に深い知識と見識、それに幅広い人脈を持つのが専門記者である。朝日新聞で言えば、論説委員、編集委員という肩書きを持つ方々がこの範疇に入る。中でも論説委員になるとあちこちから尊敬を集め、政府の審議委員などを務めることになる。
しかし、である。本音と立て前はここにもある。経営者にはできない、かといって事業を任せられる人物でもない(私が朝日ホールの総死は員だったように、朝日新聞には新聞出版ではない事業もやっておるのです)と判断され、

「歳もとってきたし、編集委員にでもしておくか」

という方々もいらっしゃったような記憶がある。
偉いさんに何故か贔屓され、論説主幹になったやつもいた。

そして、私にはどちらの道も用意されたいなかった。贔屓してくれる先輩もいなかった。新聞記者という職業を選ぶほどだから、もとより経営者になりたいという思いは全くなかった。それで一時、

「ものづくりの専門記者になりたいな」

と考えたことがある。しかし、50歳だった私に示された道は朝日系列テレビ局を管理する仕事であり、1年後には朝日グループ、日立、富士通、キヤノンが手を組んで作ったデータ放送局、デジタルキャスト・インターナショナルへの出向命じられた。

つまり私は50歳にして新聞記者を一度はになった(60歳、定年後再雇用で再びペンを持った)。恐らく、経営陣に入れるには力量不足、たいした記事も書いていないようだから専門記者にするほどでもない、と判断されたのに違いない。
当時、私の処遇を決めた偉いさんたちの判断が正しかったのかどうかは不明であり、個人的には疑問、不満もあるが、いずれにしても私の歴史はそのように流れてきた。

そんな私である。いま文藝春秋に連載中で私が愛読している「記者は天国に行けない」(清武英利著。この方は元読売新聞記者)のような深い話を持ち合わせているはずはない。恥ずかしながらの記者生活を書き継ぐしかない。

それでも書いてみようかと思い立ったのは、そろそろ我が半生を振り返ってみてもいいか、と思い始めたからである。今月22日、私は74歳の誕生日を迎える。

という次第なので、あまり期待をせずに見守っていただきたい。次回から綴り始めることにする。