2023
05.22

私と朝日新聞 記者以前の4 弁護士になろう

らかす日誌

4年少々続けた朝日新聞の配達を、中学卒業と同時に辞めた。流石に高校では、新聞配達をしながら学業をするのは難しかろう、と考えた。
もっとも、中学時代はほとんど自宅学習をしたことがない。家庭学習と呼べるのは、中学で初めて出会った英語が面白く(その割に、英会話はほとんど出来ないが)、英語の教科書を音読したことと、宿題をこなすこと、それに学校でざら紙に書いた授業のメモをノートに清書する(これは母からそうしろと言われた)程度であった。

勉強についてのある種の決意はあったのだろうが、高校でも、

「今日は2時間勉強した」

と日誌に書いていた記憶がある。学業にいそしまねばならないという決意はその程度のものでしかなかったのである。

中学生の頃、仲の良かった同級生に

「俺と一緒に鹿児島ラサールに行かないか?」

と誘われたことがあった。鹿児島ラサール? それ、何? 初めて聞いた固有名詞だが……。えっ、私立の高校? 寄宿学校? 何でそんなところに行かなくちゃならないの、地元に公立高校があるのに。

と考える私が進んだのは地元の三池高校である。もっとも、鹿児島ラサールの何たるかを知り、そこへの進学を希望したとしても、我が家の家計では到底無理だったし、私立高校に向けた受験勉強なんてやったこともない。塾には通ったことがない。変な意欲に駆られて受験していたらどうなったか……。
知らないことも救いの1つではある。そうそう、お金の話をすれば、県立の三池高校だって、育英会の特別奨学金(月額3000円)をもらえることになったから行けたようなものなのだ。

高校でやりたかったことが1つだけあった。運動部に入ることである。ずっと新聞配達をしていた中学時代は、クラブ活動は全く出来なかった。その時間は夕刊の配達時間だった。加えて、私は自分の体にコンプレックスを持っていた。背だけは人並み以上に高かったが、ガリガリといってもいいほど痩せていたのである。このみすぼらしい体に筋肉をつけたい。
何をやろうか、考えた。野球部? 俺、運動神経があまり発達していないからあの速い球は打てそうにないし、硬球は当たったら飛び上がるほど痛そうだ。それに野球部って不良のたまり場みたいだなあ……。バスケット? 走るのは苦手だ。バレー? 突き指するのではないか? 剣道部? 子どもの頃チャンバラは弱かったし、そもそも尖ったものを見るのが怖い立ちだからなあ……。

こうして決めたのが柔道部である。背だけは人並み以上に高いし、あれなら多少運動神経が鈍くっても何とかなるのではないか?
まあ、いい加減な決め方である。

もっと勉強しなければ、と努力を始めたのは2年生の夏休みだった。高校に入って以来、たかだか2時間程度の自宅学習ではあったが。数学のテストでは決まったように88点をとっていた。つまり、必ず3題、あるいはもう少し間違う。学校の中間試験、期末試験での点数だから、たいして自慢できるものではない。だが、生来脳天気なのであろう、

「ま、この程度の点数を取っていたらいいんじゃない?」

としか考えていなかった。
それが、である。2年生になった途端に数学の点数が急落したのだ。64点、68点、どうしても70点に届かない。
ノーテンキな私も流石に心配になった。我が家の家計状況を考えれば、私立大学には絶対に進めない。授業料が月額1000円の国立大学に進まねば、私は大学生になれない。

「こんな点数で、国立大学に通るか?」

高校2年の夏休み、私は一大決心をした。何としても国立大学に入らねばならない。そうでなければ人生の展望は開けない。よし、数学の点数を上げる!
数学は基礎が出来ていなければ先に進めない。であれば、数1からやり直さなければならない。「チャート式数1」という参考書を買ってきた。これを徹底的になろう!

柔道の練習、試合がない日は、朝からチャート式に取り組んだ。まだクーラーなど普及していない時代である。家の中で風が通る、相対的に涼しい居場所に小机を持ち出し、総ての問題を解き進んだ。涼しい場所は時間によって変わる。早朝は涼しくても、陽が高く上がると直射日光がさしたりするからだ。だから1日に3、4回は勉強する場所を変えた。
例題、練習問題、章末問題、すべて解いた。いや、解けなかった問題は解答を見てノートに写した。とにかく、参考書1冊をまるまるしゃぶり尽くした。
その効果だろう。2学期になると数学が面白くなった。総ての問題がスラスラと解けるわけではない。しかし、なかなか解けない問題を

「ああでもない、こうでもない」

と考えて飽きないようになったのである。

まあ、これで大学受験準備はスタートを切った。となると、次は

「大学で何を学ぶ?」

を考えなければならない。そして、どの学部を選ぶかで、大学を出てからの職業がある程度決まる。医者になりたければ医学部に、技術者になりたければ工学部に、という具合である。さて、私は何学部を目指すべきか?

余談だが、その頃の私に、1つの話が持ち込まれた。

「医者になれ」

というのである。持ち込んだのは、あの朝日新聞販売店主、飛永さんだ。
医学部に進んで医者になれ。それにかかる費用は総て市が持つ。交換条件として、医者になったら大牟田市立病院で5年勤務する。その後は自由意志に任せる。

いま考えれば、これほど魅力的な誘いはない。いまの私だったら、1も2もなく乗っていただろう。
だが、若者は馬鹿者である。私はこの誘いを蹴飛ばした。

「私は、絶対になりたくない職業が2つあります。人の命に関わる医者、人の精神に関わる教師。この2つには絶対になりたくない。人の命、心に関われるほど、私は強くありません」

惜しい話を逃したとも言える。だが、その話に乗っていたら、私は大牟田を離れることはなかったはずだ。生まれたまちに骨を埋める。私のタイプではない。
それを蹴って、結果として新聞記者になったから北は札幌から南は名古屋まで各地を巡り、様々なことを知り、様々な人と知り合っていまがある。
さて、どちらが良かったか。歴史に if はないから、考えるだけ無駄ではあるのだが。

話をもとに戻す。
大学のどの学部に進めばいいのか。その時、新聞記者という職業が視野に入っていたら、文学部という選択もあったはずである(文学部が新聞記者への早道というわけではありません。念の為)。しかし、当時の私の頭には新聞記者の「し」の字もなかった。ましてや、朝日新聞なんて4年以上も配達したのに影も形もない。

そのころ、

「これはいいかも」

と思ったのは弁護士である。遠い親戚に弁護士さんがいた。話を聞くと、弱い人、貧しい人を法律を武器に守っているという。貧困家庭で育った私は、この手の話にグッと来る。

「そうか。弁護士になった社会的弱者を守る。やりがいのある仕事ではないか? 人生をかけてもいいのではないか?」

かくして私は、文系、理系が別れる高校3年生、文系を選んだ。法学部に行く。弁護士になろう。

私は高校3年生を前に、自分の人生航路を決めたはずだった。それがこんな人生になるとは! どこで歯車が狂ったんだ?
だから人生は面白いのか。それともあてにならないのか。

こうして私は大学受験を迎えるのであった。