racasについて
あぶらかす(油糟) いからかす(怒らかす) うっちゃらかす(打っ遣らかす) おくらか…
あぶらかす(油糟) いからかす(怒らかす) うっちゃらかす(打っ遣らかす) おくらか…
②大学生になる 私は大学生時代、学校での勉強はあまりしなかった。そんな時代だった。 入…
60歳が迫ってきた。さて、60歳になって定年になったら私は何をするのだろう? いくつかの…
定年まで1年半を残す頃、根本的な改革はできないまま、私は朝日ホール総支配人を外れた。コンテ…
朝日新聞は、頭が良すぎるバカが寄り集まっていると書いた記憶がある。私なんぞが逆立ちしてもと…
総支配人時代の想い出を、あといくつか書いておきたい。 浜離宮朝日ホールには4台のフル…
「朝日新聞の企業年金が欲しければ、毎月14万9000円を納めよ」 という通知が突然来…
さまザなまことを考えた。 最後に行き着いたのがライツビジネスである。浜離宮ホールで催すコ…
親のすねをかじっている間は気楽なものだが、独立するとなれば金がいる。それが世の常識である。…
とうとう私は飛んでもないことを考え始めた。ホールの収支をせめてトントンに、できれば黒字にし…
ここまでお読みいただいた皆様、ありがとうございます。読んできて、どのようなご感想をお持ちで…
さて、研修が役にたったのかどうか、とにかくPremium meets Premiumは順調…
2006年秋、かのEric Claptonの来日公演があった。そのころ、彼はほぼ1年おきに…
在任中のホールのこぼれ話はほぼ書き尽くした。私のことだからもっと面白い話を忘却しているかも…
室内楽専門の音楽ホールの支配人でありながら、私はクラシックファンが苦手だった。好きではなか…
総支配人とはいえ、私は有楽町朝日ホールにはあまり目を向けないサボり専門だった。 1つ…
ホールの運営が何となく軌道に乗ったところで、運営とは直接関係がないエピソードをいくつかご紹…
ホールの事務室に、実に困った人がいた。というか、ホール事務室の空気を1人でドンヨリとした重…
さて、ホールの運営が軌道に乗った。私が描いた再建策が順調に動き始めた。 それはよい。それ…
朝日新聞とは実に不思議な事業体である。ホール運営の改革を進めながら、それを如実に体験した。…
浜離宮朝日ホールとしては開闢以来の大ばくちに、私は勝つことができた。無論、私だけの手柄では…
やってはみるものである。 マスメディアである朝日新聞に記事を掲載すること、552席し…
2006年度が始まった。私が支配人として買い取りを決めた60前後の朝日新聞主催公演で、私の…
一筆啓上火の用心おせん泣かすな馬肥やせ ひときわ優れた手紙文として習ったのは小学生だ…
さて、前回までで、私のホール改革案をご紹介する準備が整った。いよいよ本論である。 4…
さて、ホール経営である。とりあえずスタート地点まではたどり着いたような気がするものの、これ…
経理をごまかさず、本当に経費を減らす手法はないものか? あれこれ考えていた私は、1つのこと…
人間とは暇をもてあますものである。もてあました暇は、ろくでもないことに使われることが多い。…
私の前任者はO君であった。経済部の同僚で、あのキヤノンのHa氏と同じ麻布高校の出身。大学は…
朝日ホール総支配人時代の話は、2019年はじめに連載した。よってこれからしばらくは、その時…
本来なら、今回から「朝日ホール総支配人」の話が始まるはずである。だが、今回もタイトルは「デ…
2004年の終わり頃だったと記憶する。デジキャスに勤務する私に、朝日新聞電子電波メディア局…
企業という人の集まりには、所属する構成員を一定の色に染め上げる魔力があるのだろうか? 朝日…
英語の映画の台詞を、英語で書けないか? いったいどうしてそんなことを考え出したのか、…
デジキャスのHPは毎週1本の原稿をアップすることを原則としていた。このペースが途切れてはい…
さて、「シネマらかす」を私はどう書いたか。 最初は、映画選びである。もっとも、最初の…
新聞記者とは、取材をして原稿を書くものである。取材のきっかけは事件、事故の勃発、記者会見、…
さて初期の頃、私はどんな原稿を書いていたのか? それを知ろうと、「らかす日誌」の一番古い原…
デジキャスの内側のことにも触れておこう。 初代社長はテレビ朝日のマルチメディア局長だ…
オンエアされたデジキャスのデータ放送を見た瞬間、 「これは売ってはいけない商品だ」 …
デジキャスはBSデジタル・データ放送局であるとともに、データ放送用のコンテンツをBMLで制…
日本でBSデジタル放送が始まったのは2000年12月1日午前10時である。 その日、私た…
楽しくて痛いラスベガス出張から帰国した私は、再び営業活動に力を入れた。16枠を売りきらねば…
死ぬような思いでトイレを出てきた私を、同僚が、手持ちぶさたそうに待っていた。彼は、私を見る…
なるほど。ああいうのをウンの尽きというのか。 私がラスベガスで陥ったみじめな状況を、…
営業に動き回る日々を送っていた2000年4月、突然私にラスベガス出張の命令が朝日新聞から下…
デジキャスが開局する少し前、私はテレビ朝日のOさんに呼ばれた。 「大ちゃん、君はどん…
デジキャス=デジタルキャスト・インターナショナルが生まれたのは、2000年2月3日である。…
私の出向が言い渡される少し前、データ放送会社の社長が決まった。テレビ朝日のO氏である。私と…
マーケットリサーチのチームは、私たち朝日新聞組み2人に加えて、テレビ朝日、ABC、名古屋テ…
デジタルデータ放送局の設立準備。具体的にいえば、そのようなメディアを使いたいという企業が世…
もうひとつ仕事ができた。デジタル・データ放送局設立の準備である。 ご存知の通り、BS…
朝日新聞電子電波メディア局のなんとか部長とは、なんと気楽な稼業か、と呆れていらっしゃる方々…
テレビ大分に行くには大分空港まで飛行機で飛ぶ。大分空港は国東半島にある。テレビ大分がある大…
山口朝日放送に行くには、宇部空港で飛行機を降りることになる。宇部市から山口市までは結構距離…
さて私は、電子電波メディア局のなんとか部長になった。前回書いたように、与えられた仕事は朝日…
経済部におさらばする時がやって来た。記憶を整理すると、1998年ではなかったかと思う。それ…
経済同友会は毎年夏、軽井沢でセミナーを開いていた。会員である経営者の勉強会である。我々財界…
記者が様々なタイプがある。 記者会見で質問しない記者がいる。このタイプは2つに分かれ…
〈ポーランド = あれこれ〉 ワルシャワの町を見る暇がない。取材で人に会いに行く車の窓…
ここから先はワルシャワでパソコンに入力しながら送信の時間がなく、帰国後に送ったメールを元に…
今回は、中欧取材旅行報告の山場であります。名付けて「日欧文化比較論」。もちろん、掘り下げた…
【10月13日】 13日は6時前に目が覚めた。メールを書き、荷物をまとめ、7時半頃朝食を…
【10月12日】 昨日の続き。 このホテルは、ゴクミ(国民的美少女=後藤久美子)とアレ…
実は私は、ブダペストで経団連の一行から離れ、独自取材の旅を始めた。 「折角旧東欧に行…
【10月10日】 まず、ルーマニアで書き残したことを少々。 ここもパトカーの先導で、バ…
【10月8日】 P.S. (解説) P.S.=追伸 迎賓館のトイレットペーパーは…
【10月8日】 7日は午前5時半起きだった。6時にラゲッジダウンして、7時にホテルを出て…
【10月6日】 ドレスデンのホテルから、バスで南西に走り、フォルクスワーゲンの工場があ…
【10月4日】 まず、昨日。 午前中、プラハ城、カレル橋を見学。ゴシック様式の壮大…
財界担当は2〜3年続いたと思う。経済部記者としての最後の担当になり、50歳にして取材現場か…
平岩さんの会長室の執務机の上には、常に10数冊の本が平積みしてあった。恐らく、これから読も…
もう一度平岩外四さんに触れておきたい。東京電力会長で、第7代経団連会長だった平岩さんである…
歴代の経団連会長を並べてみよう。 初代:石川 一郎 (日産化学工業社長) 第2代:…
経団連は毎年夏、御殿場の経団連ゲストハウスで夏のフォーラムを開いていた。会長をはじめとした…
少し矛先を変える。 財界を担当している間、私のたまり場は神田取材センターだった。 …
財界を担当して、最大の仕事は経団連会長人事だったのかもしれない。いろいろと経済団体の提言な…
抜かれた。抜かれたら、追いかけて記事を書かなければならない。dあが、外はまだ真っ暗。草木も…
豊田章一郎さんからバトンタッチを受けて第9代経団連会長になったのは、新日鐵会長の今井敬さん…
経団連会長の任期は1期2年である、豊田章一郎さんが2期目に入った1996年からは、誰が次の…
財界を取材する上で、企業の政治献金の話は是非ものである。 経団連は長い間、政治献金の…
追い出しコンパ当日。 私が提案し、私が企画し、私が動き回って実現した宴会である。進行…
勢いに乗って、豊田章一郎さんの話を続ける。 豊田章一郎さんが、平岩外四・東京電力会長…
前回は、豊田章一郎経団連会長の発言を批判した記事について書いた。新聞記者には批判精神は是非…
規制緩和が当時の流行語だったことは前回書いた。そんな時勢柄、経済団体の記者会見では、規制緩…
私は財界担当になった。取材対象は、経済団体連合会(経団連)、日本経営者団体連盟(日経連)、…
経済部長は約束通り、6ヵ月で私を経済部に呼び戻した。新しい担当職場は、再び建設省だった。 …
私が記事審査室員になったのは10月。半年の約束だから、翌年3月までのおつとめだ。そう思って…
「大道君、記事審査室に行ってくれないか?」 と経済部長に言われたのは、ウイークエンド…
朝日新聞社のコアタイムは、9時〜17時、10時〜18時の2本立てだった。職場の実情に応じて…
①ウイークエンド経済編集部にはデスクが2人いて、週替わりでフロント面を担当した。 ②…
先日Amazonに注文した栗原さんと赤池さんの本が届いた。「お医者さんの食卓」(朝日新聞社…
ウイークエンド経済時代の話を書いている最中に、「ウイークエンド経済」を論じた文章にぶつかっ…
おかしなウイークエンド経済部員がいた。いや、おかしいというのは私の主観である。他の人から見…
栗原さんと赤池さんは私が発掘したコラムニストである。当然私が担当する。毎週締め切りまでに原…
栗原さんを初めて訪ねたのと並行して、私は赤池学さんとも会った。I 編集長に渡された「メルセ…
八重洲ブックセンターで私は、これは、と思える2、3冊の本を買った。その中に書名は忘れたが栗…
当時のウイークエンド経済の編集長をIさんといった。東大卒。私などとても及ばないほど頭のいい…
人の記憶とは不思議なものである。古いことはよく覚えているのに、新しくなると徐々に記憶が混乱…
さて、3度目となった私の東京での仕事は、悲惨な話から始めなければならない。私が東京に帰任し…
申し訳ない。またまた「2度目の東京経済部」に舞い戻った。書きわすれていたことを思い出したの…
2度目の名古屋勤務は3年半の長きにわたった。長男はこの間に高校を卒業し、みごとに1浪の身と…
それにしても、である。加藤東海銀行会長への周りの評価は驚くほど低かった。 「だが、名…
年末に次女一家がやって来た。ファミリーレストランで一緒に食事をするだけの短い滞在だった。両…
そろそろ「ウイークエンド経済」におさらばしようと思っていたら、 「ああ、こんなことも…
足繁く、とまではいわないが、私は結構頻繁に城南電機を訪ねた。宮路社長がいればすぐに社長室に…
「ビジネス戦記」は、いわゆる聞き書きで作り上げる。私たち記者が取材先から話をうかがい、取材…
宮路社長にはよくご馳走になった。 「お返しを」 といっても、応じてくれる人では…
城南電機、宮路年雄社長のロールス・ロイスの話を続ける。 「お父さん」 と私に声…
そんなことを繰り返しながら、だが、私と宮路社長の中は急速に接近した。どうやら私は宮路社長の…
家電品の価格のからくり、流通の問題は是非記事にしたいテーマだった。どんな仕組みがあるから販…
この頃私は、家電製品の価格のからくりを知りたくて仕方がなかった。同じメーカーの同じテレビで…
「カタログ」というコーナーも、ウイークエンド経済の定番だった。故花森安治氏を真似たわけでは…
クリスキットの桝谷英哉さんにコラムの執筆をお願いしたのも、ウイークエンド経済だった。もちろ…
ウイークエンド経済の紙面はフロント面だけではない。ほかにもいろいろな趣向があった。 その…
福岡で起きたことは「編集部調査報告第2弾」で読者に伝えた。それで終わっても良かったのかも知…
フロント面で中古マンションの価格動向を特集したことがある。このころ、中古マンションは全国的…
桐生が突然の停電に見舞われた。27日午後1時35分の出来事である。 ブチッという音と…
「私と朝日新聞」の連載を中断して、最近私に起きた事故を書いておく。 事故が起きたのは…
ここまで書いてきて、大変な間違いをしでかしていたことに気が付いた。 2度目の東京勤務のこ…
名古屋では、意図した訳ではないが、クリスキットの普及にも一役買った。 「えっ、このス…
単身赴任中、私は月1度の割で横浜に帰省した。移動はマイカーである。当時の愛車は紺色のホンダ…
この若者となら、是非仕事がしてみたい、という受験生が1人だけいた。名古屋大学の男子学生だっ…
仕事といえば、これも仕事である。ある年、私は入社試験の面接官を仰せつかった。 私が入社試…
All the News That’s Fit to Print. これはニューヨー…
トヨタ自動車広報課長のYaさんと飲み友だちになるのにたいした時間はかからなかった。私はでき…
「あ、みんな気が付いてはいるんだ」 技術者たちとの、まずは名刺交換、おずおずとした自…
トヨタ自動車取締役の渡辺捷昭(かつあき)さんと初めてお目にかかったのは、野村證券名古屋支店…
ここまで書いてきて、名古屋に2度目に赴任してから後しばらくの記憶が曖昧なのに気が付いた。名…
私が2度目の名古屋在勤時代、中部電力会長だった松永亀三郎さんのことを書いておきたい。東海銀…
長期戦だった東海銀行不正融資事件もほぼ終幕が見え始め、朝日新聞は連載を始めた。事件の総まと…
私たち、朝日新聞チームの取材が進み、東海銀行の恥部ともいえる話が紙面を飾ることが重なると、…
名古屋経済部には2人のデスクがいる。デスクとは記者が書いてきた原稿を、新聞に掲載するに足る…
東海銀行秋葉原支店の不正融資事件の取材はずいぶん長く続いた。3ヵ月? 6ヵ月? 記憶ははっ…
それにしても、私は東海銀行(現三菱東京UFJ銀行)とは、何か不思議な縁で結ばれていたようで…
昼食はスパゲティが多かった。まずは麺を茹でなければならない。 うどんやラーメンの麺と、ス…
確か、ちょうどその頃だった。書店を散策していた私は1冊の本に出会う。「丸元淑生のシステム料…
前回の名古屋勤務は家族を伴っていたので、名古屋市千種区に会社が借り上げている3DKのマンシ…
再び東京を離れることになった。行き先は名古屋である。 しばらく前に、経済部長と喧嘩をして…
記者会見が始まった。経済部長の友人は大学教授(確か、筑波大学だった)を連れていた。この教授…
「大道君」 と経済企画庁の記者クラブに電話をよこしたのは経済部長だった。部長直々の電…
民間出身初の女性閣僚として高原須美子さんが経済企画庁長官に就任したのは、記録を調べると19…
バブルといわれた時代、日本の株価は天井知らずの上昇を続けていた。日経平均株価は1989年1…
経済企画庁は経済官庁である。その活動で、もっとも注目されたのは四半期別GDP速報(当時、Q…
思わず、 「ウッソー!」 と言いたくなる訂正記事の話をご紹介しよう。経済企画庁…
次の担当は経済企画庁(現在は内閣府の一部)だった。就任したのは1990年前後だったと思う。…
そろそろ証券業界担当から離れなければならない。 その前に、1つだけ書いておきたいエピソー…
証券業界を担当した2年ほどの間、私は結構身を入れて仕事をしたと思う。ところが、あのインサイ…
朝日新聞が先鞭をつけ、新日鉄幹部の株取引手口をすっぱ抜いて盛り上げたインサイダー取引事件は…
「そんな! あなたは取材を受けると約束したじゃありませんか!」 といってみたところで…
インタビューをするには相手の協力がいる。口を開く気がない相手ではインタビューは成り立たない…
「新日鉄の本社って、丸の内でしょ。提携の担当者だったら本社にいるはず。だから、山一証券で株…
しかし、である。新日鉄と三協精機の提携にからんでインサイダー取引(当時はまだ犯罪ではなかっ…
さて、仕事の話を書こう。いや、田淵さんと仲良くなることも大事な仕事だったが、ここから書くの…
私が証券業界担当になったとき、 「野村證券に食い込むのは無理!」 と、お節介に…
そろそろ、田淵さんの話を終わられねばならない。 田淵さんを追い回していた証券担当のこ…
東京・駒沢の田淵さんのマンションに我がファミリーが初めてお招きいただいたのは、確か正月だっ…
浪人になった田淵さんに久々に電話を入れたのはいつだったろう? 「田淵さん、お元気です…
田淵社長には文化に貢献したいという夢があった。社長在任中、世界中の音楽家の卵を札幌に集めて…
田淵さんの話を続ける。 ある時、田淵さんが突然いいだした。 「俺は野村證券を理…
時間軸を無視して、田渕社長の話を続ける。 ある夜回りの日、私はずっと気になっていた人…
「大道君、先日はご馳走になったな。今度はこちらがご馳走そうする番だ。いつがいいか?」 …
「田渕さん、飲みに行きませんか」 と私が初めて誘ったのは、1988年3月だった。この…
最初に。 昨日書きわすれたことがあった。私は田淵社長に向かって 「私はあなたの訃報…
野村證券の社長、会長から電話1本で情報が取れる体制を作る。許された時間は3ヵ月。 1…
新しい業界、企業を担当する。まず行うべきは、あいさつである。そして、企業を知るにはまず社長…
「Tokyo Money」の連載が終了したのは1987年12月21日・日曜日である。札幌か…
そろそろ、私の世界一周の旅も終わりである。 重いスーツケースを引きずりながら歩いた空港が…
東京とニューヨークの時差は13時間である。ニューヨークで6日午後6時の時、東京は7日午前7…
私がニューヨークに着いたのは1987年10月18日の日曜日である。この日付は明瞭に記憶にあ…
米国の首都ワシントンには、経済部の先輩Taさんが特派員としていた。テレビ朝日・ニュースステ…
グランドケイマンで取材に訪れた先は、カナダ・インペリアル銀行(CIBC)ケイマン支店である…
グランドケイマンに到着したのは夕刻だった。まず、予約してあったホテルにチェックインする。次…
今回は、激痛を発し続ける腹を抱えて私がグランドケイマンにたどり着くまでの経緯を書かねばなら…
しかし、である。入国の際のゴタゴタから始まって、メキシコは思い出深い国である。 メキ…
メキシコシティを訪れたのも、「キャピタル・フライト」の取材の一環である。そもそも、金が逃げ…
サンディエゴ空港であんな出来事があったのである。私の旅、無事に済むわけがない。ロサンゼルス…
サンディエゴからメキシコシティに行くのは、ロサンゼルス経由である。この乗り継ぎ便で一騒動あ…
サンディエゴでは、国境の検問所を見た。アメリカからメキシコへ、メキシコからアメリカへ、人や…
サンディエゴについては、やっぱり「グルメらかす」で書いている。ここも読者の手を患わせること…
次の目的地は、アメリカ・サンディエゴである。ここでは「キャピタル・フライト」を取材する。キ…
そろそろロンドンを離れなければならない。ロンドン最終回の一部はコピペ、残りは 『確か…
ダブリンで1泊した私は、再びロンドンに戻って「プロジェクト金融」の取材を続けた。ロンドンで…
実は、ここまで書いてきてある障害にぶつかった。私の「Tokyo Money」世界一周の旅は…
その頃、東京で膨れあがったお金は国内では使い切れなかった。米国の金融市場、不動産市場に流れ…
ロンドンはもちろん初めて足をおろす町である、確か、ヒースロー空港に着いたのだと思う。私は行…
「パンダとクマ」の原稿を仕上げた私には、もう香港に用はない。次の目的地、ロンドンを目指すば…
もちろん、香港では買い物ばかりしていたのではない。ちゃんと取材もした。 ところが、どんな…
9月28日に始まった重粒子線による治療が今日で終わった。これで前立腺にがんが再発しない確率…
「Tokyo Money」の旅は、私にとって「内外価格差」の実情を知る旅でもあった。取材が…
私が世界一周の旅に出かけたのは1987年9月のことだった。香港からロンドンに向かい、アイル…
「Tokyo Money」の連載は7月から始まった。まず2回目が私の担当だった。掲載された…
「Tokyo Money」はYaさんと私でまとめる連載である。Yaさんは、直前は確か金融担…
東京に戻ってきた。時は1987年5月である。 横浜の我が家では長男が公立の中学校1年生と…
妻女殿の両腕の手首か先が真っ白になったのは、札幌で初めて迎えた冬だった。 「なんでこ…
私は家族を、三重県津市⇒岐阜県岐阜市⇒名古屋市⇒千葉県浦安市⇒横浜市鶴見区⇒札幌市、と連れ…
札幌出身、東京の女子中高一貫校で長く働き、いまは桐生に移り住んでいるMaさんなる友人がいる…
道東旅行3日目。何事もなくバンガローで目覚めた。手近なもので朝食を済ませると、私たちは車に…
夏休みを利用して道東を旅したのは1985年8月である。 「旅をしたい」 と言い…
蘇ってくれる記憶に関する限り、札幌での仕事の話は出尽くした。これからしばらく札幌での暮らし…
札幌に赴任したサラリーマンは2度泣くといわれる。 1度は札幌転勤の辞令が出て 「あ…