私と朝日新聞 デジキャスの9 私は詐欺師にはなりたくなかった
オンエアされたデジキャスのデータ放送を見た瞬間、 「これは売ってはいけない商品だ」 …
私と朝日新聞 デジキャスの8 ローカル局の若手たちと親しくなった
デジキャスはBSデジタル・データ放送局であるとともに、データ放送用のコンテンツをBMLで制…
私と朝日新聞 デジキャスの7 売らねばならない商品への自信をなくした
日本でBSデジタル放送が始まったのは2000年12月1日午前10時である。 その日、私た…
私と朝日新聞 デジキャスの6 私が営業局長に就任した
楽しくて痛いラスベガス出張から帰国した私は、再び営業活動に力を入れた。16枠を売りきらねば…
私と朝日新聞 デジキャスの5 ラスベガスとモルヒネと腰痛と
死ぬような思いでトイレを出てきた私を、同僚が、手持ちぶさたそうに待っていた。彼は、私を見る…
私と朝日新聞 デジキャスの4 ラスベガスで腰痛が悪化した!
なるほど。ああいうのをウンの尽きというのか。 私がラスベガスで陥ったみじめな状況を、…
私と朝日新聞 デジキャスの3 サンノゼに行った
営業に動き回る日々を送っていた2000年4月、突然私にラスベガス出張の命令が朝日新聞から下…
私と朝日新聞 デジキャスの2 デジキャスの営業担当になった
デジキャスが開局する少し前、私はテレビ朝日のOさんに呼ばれた。 「大ちゃん、君はどん…
私と朝日新聞 デジキャスの1 デジキャスが始動した
デジキャス=デジタルキャスト・インターナショナルが生まれたのは、2000年2月3日である。…
私と朝日新聞 電子電波メディア局の8 大道さん、あんたはどうなんだ?
私の出向が言い渡される少し前、データ放送会社の社長が決まった。テレビ朝日のO氏である。私と…
私と朝日新聞 電子電波メディア局の7 電子電波メディア局次長にご意見申し上げた話
マーケットリサーチのチームは、私たち朝日新聞組み2人に加えて、テレビ朝日、ABC、名古屋テ…
私と朝日新聞 電子電波メディア局の6 ハイビジョンと軍事
デジタルデータ放送局の設立準備。具体的にいえば、そのようなメディアを使いたいという企業が世…
私と朝日新聞 電子電波メディア局の5 デジタルデータ放送局に関わった
もうひとつ仕事ができた。デジタル・データ放送局設立の準備である。 ご存知の通り、BS…
私と朝日新聞 電子電波メディア局の4 系列局の経営分析に取り組んだ
朝日新聞電子電波メディア局のなんとか部長とは、なんと気楽な稼業か、と呆れていらっしゃる方々…
私と朝日新聞 電子電波メディア局の3 テレビ大分と大分の話
テレビ大分に行くには大分空港まで飛行機で飛ぶ。大分空港は国東半島にある。テレビ大分がある大…
私と朝日新聞 電子電波メディア局の2 山口朝日放送に行く
山口朝日放送に行くには、宇部空港で飛行機を降りることになる。宇部市から山口市までは結構距離…
私と朝日新聞 電子電波メディア局の1 琉球朝日放送に行った
さて私は、電子電波メディア局のなんとか部長になった。前回書いたように、与えられた仕事は朝日…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の44 ペンを手放す日が来た
経済部におさらばする時がやって来た。記憶を整理すると、1998年ではなかったかと思う。それ…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の43 経済同友会夏のセミナー
経済同友会は毎年夏、軽井沢でセミナーを開いていた。会員である経営者の勉強会である。我々財界…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の42 記者会見は公の場である
記者が様々なタイプがある。 記者会見で質問しない記者がいる。このタイプは2つに分かれ…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の41 帰国の2
〈ポーランド = あれこれ〉 ワルシャワの町を見る暇がない。取材で人に会いに行く車の窓…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の40 帰国の1
ここから先はワルシャワでパソコンに入力しながら送信の時間がなく、帰国後に送ったメールを元に…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の39 小林一茶
今回は、中欧取材旅行報告の山場であります。名付けて「日欧文化比較論」。もちろん、掘り下げた…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の38 シュコダ社での取材
【10月13日】 13日は6時前に目が覚めた。メールを書き、荷物をまとめ、7時半頃朝食を…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の37 クッ、クッ、クッ
【10月12日】 昨日の続き。 このホテルは、ゴクミ(国民的美少女=後藤久美子)とアレ…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の36 国立オペラハウス
実は私は、ブダペストで経団連の一行から離れ、独自取材の旅を始めた。 「折角旧東欧に行…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の35 マイケル・ジャクソンの新婚旅行
【10月10日】 まず、ルーマニアで書き残したことを少々。 ここもパトカーの先導で、バ…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の34 トイレットペーパー
【10月8日】 P.S. (解説) P.S.=追伸 迎賓館のトイレットペーパーは…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の33 ルーマニアの迎賓館
【10月8日】 7日は午前5時半起きだった。6時にラゲッジダウンして、7時にホテルを出て…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の32 なぜか、ワーゲン
【10月6日】 ドレスデンのホテルから、バスで南西に走り、フォルクスワーゲンの工場があ…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の31 プラハを歩く
【10月4日】 まず、昨日。 午前中、プラハ城、カレル橋を見学。ゴシック様式の壮大…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の30 チェコのビールは美味かった!
財界担当は2〜3年続いたと思う。経済部記者としての最後の担当になり、50歳にして取材現場か…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の29 平岩さんは色っぽい爺、であった
平岩さんの会長室の執務机の上には、常に10数冊の本が平積みしてあった。恐らく、これから読も…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の28 平岩外四さんと親しくなった
もう一度平岩外四さんに触れておきたい。東京電力会長で、第7代経団連会長だった平岩さんである…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の27 経団連会長に必要なお金
歴代の経団連会長を並べてみよう。 初代:石川 一郎 (日産化学工業社長) 第2代:…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の26 夏の経団連フォーラム
経団連は毎年夏、御殿場の経団連ゲストハウスで夏のフォーラムを開いていた。会長をはじめとした…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の25 神田取材センター
少し矛先を変える。 財界を担当している間、私のたまり場は神田取材センターだった。 …
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の24 名社長の条件
財界を担当して、最大の仕事は経団連会長人事だったのかもしれない。いろいろと経済団体の提言な…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の23 今井さんは引き受けてくれるでしょうか?
抜かれた。抜かれたら、追いかけて記事を書かなければならない。dあが、外はまだ真っ暗。草木も…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の22 私は経団連会長人事を抜かれた
豊田章一郎さんからバトンタッチを受けて第9代経団連会長になったのは、新日鐵会長の今井敬さん…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の21 鉄は産業の米か
経団連会長の任期は1期2年である、豊田章一郎さんが2期目に入った1996年からは、誰が次の…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の20 財界と企業献金の話
財界を取材する上で、企業の政治献金の話は是非ものである。 経団連は長い間、政治献金の…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の19 豊田経団連会長の追い出しコンパ その2
追い出しコンパ当日。 私が提案し、私が企画し、私が動き回って実現した宴会である。進行…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の18 豊田経団連会長の追い出しコンパ その1
勢いに乗って、豊田章一郎さんの話を続ける。 豊田章一郎さんが、平岩外四・東京電力会長…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の17 豊田章一郎はプロレタリアートか?_
前回は、豊田章一郎経団連会長の発言を批判した記事について書いた。新聞記者には批判精神は是非…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の16 規制緩和と車検制度
規制緩和が当時の流行語だったことは前回書いた。そんな時勢柄、経済団体の記者会見では、規制緩…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の15 私は財界担当になりました
私は財界担当になった。取材対象は、経済団体連合会(経団連)、日本経営者団体連盟(日経連)、…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の14 また建設省担当にになった
経済部長は約束通り、6ヵ月で私を経済部に呼び戻した。新しい担当職場は、再び建設省だった。 …
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の13 新年1面企画を書けと命じられた
私が記事審査室員になったのは10月。半年の約束だから、翌年3月までのおつとめだ。そう思って…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の12 記事審査室に異動になった
「大道君、記事審査室に行ってくれないか?」 と経済部長に言われたのは、ウイークエンド…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の11 あの日は忘れられません
朝日新聞社のコアタイムは、9時〜17時、10時〜18時の2本立てだった。職場の実情に応じて…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の10 デスクという仕事
①ウイークエンド経済編集部にはデスクが2人いて、週替わりでフロント面を担当した。 ②…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の9 2冊の本が届きました
先日Amazonに注文した栗原さんと赤池さんの本が届いた。「お医者さんの食卓」(朝日新聞社…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の8 山本夏彦さんのこと
ウイークエンド経済時代の話を書いている最中に、「ウイークエンド経済」を論じた文章にぶつかっ…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の7 タクシー運転手を殴ったヤツがいた
おかしなウイークエンド経済部員がいた。いや、おかしいというのは私の主観である。他の人から見…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の6 十読しても分からない原稿と格闘した話
栗原さんと赤池さんは私が発掘したコラムニストである。当然私が担当する。毎週締め切りまでに原…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の5 「ものづくりの方舟」の話
栗原さんを初めて訪ねたのと並行して、私は赤池学さんとも会った。I 編集長に渡された「メルセ…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の4 「食楽考」は素晴らしいコラムだった
八重洲ブックセンターで私は、これは、と思える2、3冊の本を買った。その中に書名は忘れたが栗…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の3 コラム欄の新設を命じられた
当時のウイークエンド経済の編集長をIさんといった。東大卒。私などとても及ばないほど頭のいい…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の2 初めての老眼鏡を買った
人の記憶とは不思議なものである。古いことはよく覚えているのに、新しくなると徐々に記憶が混乱…
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の1 妻女殿が入院した
さて、3度目となった私の東京での仕事は、悲惨な話から始めなければならない。私が東京に帰任し…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の70 朝日新聞の珊瑚礁事件
申し訳ない。またまた「2度目の東京経済部」に舞い戻った。書きわすれていたことを思い出したの…
私と朝日新聞 2度目の名古屋経済部の21 東京の部長には嫌われていたらしい
2度目の名古屋勤務は3年半の長きにわたった。長男はこの間に高校を卒業し、みごとに1浪の身と…
私と朝日新聞 2度目の名古屋経済部の20 それにしても、加藤会長という人は……
それにしても、である。加藤東海銀行会長への周りの評価は驚くほど低かった。 「だが、名…
私と朝日新聞 2度目の名古屋経済部の19 忘れていたが、東海銀行にはもう一つ事件があった
年末に次女一家がやって来た。ファミリーレストランで一緒に食事をするだけの短い滞在だった。両…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の69 ウイークエンド経済ではこんな記事も書いたのです
そろそろ「ウイークエンド経済」におさらばしようと思っていたら、 「ああ、こんなことも…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の68 宮路年雄という人
足繁く、とまではいわないが、私は結構頻繁に城南電機を訪ねた。宮路社長がいればすぐに社長室に…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の67 城南電機は安い!
「ビジネス戦記」は、いわゆる聞き書きで作り上げる。私たち記者が取材先から話をうかがい、取材…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の66 宮路社長を我が家にお招きした
宮路社長にはよくご馳走になった。 「お返しを」 といっても、応じてくれる人では…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の65 防弾仕様のロールス・ロイスが中古車になった
城南電機、宮路年雄社長のロールス・ロイスの話を続ける。 「お父さん」 と私に声…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の64 ロールス・ロイスの後部座席に乗った
そんなことを繰り返しながら、だが、私と宮路社長の中は急速に接近した。どうやら私は宮路社長の…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の63 宮地社長を記事にした
家電品の価格のからくり、流通の問題は是非記事にしたいテーマだった。どんな仕組みがあるから販…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の62 城南電機の宮路年雄社長に会った
この頃私は、家電製品の価格のからくりを知りたくて仕方がなかった。同じメーカーの同じテレビで…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の61 カタログ、というコーナー
「カタログ」というコーナーも、ウイークエンド経済の定番だった。故花森安治氏を真似たわけでは…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の60 桝谷英哉さんにコラムの連載をお願いした
クリスキットの桝谷英哉さんにコラムの執筆をお願いしたのも、ウイークエンド経済だった。もちろ…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の59 「マイポケット」の話
ウイークエンド経済の紙面はフロント面だけではない。ほかにもいろいろな趣向があった。 その…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の58 ウイークエンド経済は楽しい!
福岡で起きたことは「編集部調査報告第2弾」で読者に伝えた。それで終わっても良かったのかも知…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の57 福岡のマンション狂想曲
フロント面で中古マンションの価格動向を特集したことがある。このころ、中古マンションは全国的…
桐生が突然の停電に見舞われた
桐生が突然の停電に見舞われた。27日午後1時35分の出来事である。 ブチッという音と…
えっ、俺、ここで死ぬのかな? と思った話
「私と朝日新聞」の連載を中断して、最近私に起きた事故を書いておく。 事故が起きたのは…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の56 ウイークエンド経済
ここまで書いてきて、大変な間違いをしでかしていたことに気が付いた。 2度目の東京勤務のこ…
私と朝日新聞 2度目の名古屋経済部の18 見た目にも気をつけないと
名古屋では、意図した訳ではないが、クリスキットの普及にも一役買った。 「えっ、このス…
私と朝日新聞 2度目の名古屋経済部の17 父親不在の家庭
単身赴任中、私は月1度の割で横浜に帰省した。移動はマイカーである。当時の愛車は紺色のホンダ…
私と朝日新聞 2度目の名古屋経済部の16 採用面接で素敵な青年に出会った
この若者となら、是非仕事がしてみたい、という受験生が1人だけいた。名古屋大学の男子学生だっ…
私と朝日新聞 2度目の名古屋経済部の15 入社試験の面接官になった
仕事といえば、これも仕事である。ある年、私は入社試験の面接官を仰せつかった。 私が入社試…
私と朝日新聞 2度目の名古屋経済部の14 News That’s Fit to Print.がない時は
All the News That’s Fit to Print. これはニューヨー…
私と朝日新聞 2度目の名古屋経済部の13 トヨタ自動車の飲み友だち
トヨタ自動車広報課長のYaさんと飲み友だちになるのにたいした時間はかからなかった。私はでき…
私と朝日新聞 2度目の名古屋経済部の12 技術者の率直さ
「あ、みんな気が付いてはいるんだ」 技術者たちとの、まずは名刺交換、おずおずとした自…
私と朝日新聞 2度目の名古屋経済部の11 渡辺捷昭さんと仲良くなった
トヨタ自動車取締役の渡辺捷昭(かつあき)さんと初めてお目にかかったのは、野村證券名古屋支店…
私と朝日新聞 2度目の名古屋経済部の10 足首が半年間も痛かった話
ここまで書いてきて、名古屋に2度目に赴任してから後しばらくの記憶が曖昧なのに気が付いた。名…
私と朝日新聞 2度目の名古屋経済部の9 松永亀三郎さんのこと
私が2度目の名古屋在勤時代、中部電力会長だった松永亀三郎さんのことを書いておきたい。東海銀…
私と朝日新聞 2度目の名古屋経済部の8 最高権力者の出処進退
長期戦だった東海銀行不正融資事件もほぼ終幕が見え始め、朝日新聞は連載を始めた。事件の総まと…
私と朝日新聞 2度目の名古屋経済部の7 敵と味方
私たち、朝日新聞チームの取材が進み、東海銀行の恥部ともいえる話が紙面を飾ることが重なると、…
私と朝日新聞 2度目の名古屋経済部の6 阿呆なデスクがいた話
名古屋経済部には2人のデスクがいる。デスクとは記者が書いてきた原稿を、新聞に掲載するに足る…
私と朝日新聞 2度目の名古屋経済部の5 今度は名古屋経済部長と喧嘩をした
東海銀行秋葉原支店の不正融資事件の取材はずいぶん長く続いた。3ヵ月? 6ヵ月? 記憶ははっ…
私と朝日新聞 2度目の名古屋経済部の4 東海銀行の不正融資事件
それにしても、私は東海銀行(現三菱東京UFJ銀行)とは、何か不思議な縁で結ばれていたようで…
私と朝日新聞 2度目の名古屋経済部の3 独り暮らしの基礎が出来た
昼食はスパゲティが多かった。まずは麺を茹でなければならない。 うどんやラーメンの麺と、ス…
私と朝日新聞 2度目の名古屋経済部の2 朝食は作りダメルことにした
確か、ちょうどその頃だった。書店を散策していた私は1冊の本に出会う。「丸元淑生のシステム料…
私と朝日新聞 2度目の名古屋経済部の1 独り暮らしの基礎は食事である
前回の名古屋勤務は家族を伴っていたので、名古屋市千種区に会社が借り上げている3DKのマンシ…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の55 私が「忙しい」を口にする人間を信用できないわけ
再び東京を離れることになった。行き先は名古屋である。 しばらく前に、経済部長と喧嘩をして…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の54 実力部長と喧嘩をしてしまった……
記者会見が始まった。経済部長の友人は大学教授(確か、筑波大学だった)を連れていた。この教授…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の53 記者クラブというもの
「大道君」 と経済企画庁の記者クラブに電話をよこしたのは経済部長だった。部長直々の電…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の52 高天原景気
民間出身初の女性閣僚として高原須美子さんが経済企画庁長官に就任したのは、記録を調べると19…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の51 日本経済の曲がり角
バブルといわれた時代、日本の株価は天井知らずの上昇を続けていた。日経平均株価は1989年1…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の50 ワープロの話
経済企画庁は経済官庁である。その活動で、もっとも注目されたのは四半期別GDP速報(当時、Q…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の49 こんな訂正もありました
思わず、 「ウッソー!」 と言いたくなる訂正記事の話をご紹介しよう。経済企画庁…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の48 3回連続で訂正を出してしまった
次の担当は経済企画庁(現在は内閣府の一部)だった。就任したのは1990年前後だったと思う。…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の47 「銀座のクラブにご招待しよう」とMoさんは言った
そろそろ証券業界担当から離れなければならない。 その前に、1つだけ書いておきたいエピソー…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の46 落ちこぼれる?
証券業界を担当した2年ほどの間、私は結構身を入れて仕事をしたと思う。ところが、あのインサイ…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の45 インサイダー事件の報道合戦に圧勝した
朝日新聞が先鞭をつけ、新日鉄幹部の株取引手口をすっぱ抜いて盛り上げたインサイダー取引事件は…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の44 インタビューは出来なかった
「そんな! あなたは取材を受けると約束したじゃありませんか!」 といってみたところで…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の43 インタビューのアポイントを取り付けたのだが
インタビューをするには相手の協力がいる。口を開く気がない相手ではインタビューは成り立たない…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の42 インサイダーを特定できた!
「新日鉄の本社って、丸の内でしょ。提携の担当者だったら本社にいるはず。だから、山一証券で株…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の41 「大道さん、ちょっと来ませんか?」
しかし、である。新日鉄と三協精機の提携にからんでインサイダー取引(当時はまだ犯罪ではなかっ…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の40 キャップに抜かれた!
さて、仕事の話を書こう。いや、田淵さんと仲良くなることも大事な仕事だったが、ここから書くの…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の39 野村證券のあれこれ
私が証券業界担当になったとき、 「野村證券に食い込むのは無理!」 と、お節介に…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の38 どうしてコンサルなんかを使うんですか?
そろそろ、田淵さんの話を終わられねばならない。 田淵さんを追い回していた証券担当のこ…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の37 次女の結婚式に参列していただいた
東京・駒沢の田淵さんのマンションに我がファミリーが初めてお招きいただいたのは、確か正月だっ…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の36 田淵さんと「割り勘」で飲むようになった
浪人になった田淵さんに久々に電話を入れたのはいつだったろう? 「田淵さん、お元気です…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の35 田淵さんと塩野七生さんを繋いだ話
田淵社長には文化に貢献したいという夢があった。社長在任中、世界中の音楽家の卵を札幌に集めて…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の34 野村證券支店長研修に1日とちょっとだけ参加した
田淵さんの話を続ける。 ある時、田淵さんが突然いいだした。 「俺は野村證券を理…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の33 田淵さんに人事の話を聞いた
時間軸を無視して、田渕社長の話を続ける。 ある夜回りの日、私はずっと気になっていた人…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の32 ミッションを達成した
「大道君、先日はご馳走になったな。今度はこちらがご馳走そうする番だ。いつがいいか?」 …
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の31 田渕社長と飲み友だちになった
「田渕さん、飲みに行きませんか」 と私が初めて誘ったのは、1988年3月だった。この…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の30 「長男に会ってやって欲しいんだ」
最初に。 昨日書きわすれたことがあった。私は田淵社長に向かって 「私はあなたの訃報…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の29 「梅原猛は革命家だから好きだ」
野村證券の社長、会長から電話1本で情報が取れる体制を作る。許された時間は3ヵ月。 1…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の28 野村證券にあいさつに行った
新しい業界、企業を担当する。まず行うべきは、あいさつである。そして、企業を知るにはまず社長…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の27 野村證券の社長、会長に食い込め!
「Tokyo Money」の連載が終了したのは1987年12月21日・日曜日である。札幌か…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の26 長男はスター・ウォーズで英会話を学んだ
そろそろ、私の世界一周の旅も終わりである。 重いスーツケースを引きずりながら歩いた空港が…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の25 CNNはニュースをエンターテインメントにした
東京とニューヨークの時差は13時間である。ニューヨークで6日午後6時の時、東京は7日午前7…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の24 ブラックマンデーに飛び込んだ
私がニューヨークに着いたのは1987年10月18日の日曜日である。この日付は明瞭に記憶にあ…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の23 ワシントンで体力回復に努めた
米国の首都ワシントンには、経済部の先輩Taさんが特派員としていた。テレビ朝日・ニュースステ…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の22 グランドケイマンでパーパーカンパニーを見た
グランドケイマンで取材に訪れた先は、カナダ・インペリアル銀行(CIBC)ケイマン支店である…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の21 グランドケイマンでの亀料理
グランドケイマンに到着したのは夕刻だった。まず、予約してあったホテルにチェックインする。次…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の20 グランドケイマンへの飛行機ですこぶる付きの美女に会った
今回は、激痛を発し続ける腹を抱えて私がグランドケイマンにたどり着くまでの経緯を書かねばなら…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の19 メキシコの空港で激しい腹痛に襲われたのです
しかし、である。入国の際のゴタゴタから始まって、メキシコは思い出深い国である。 メキ…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の18 メキシコシティで公債局長にインタビューした
メキシコシティを訪れたのも、「キャピタル・フライト」の取材の一環である。そもそも、金が逃げ…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の17 メキシコシティの空港で恐喝された
サンディエゴ空港であんな出来事があったのである。私の旅、無事に済むわけがない。ロサンゼルス…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の16 サンディエゴ空港でのハプニング
サンディエゴからメキシコシティに行くのは、ロサンゼルス経由である。この乗り継ぎ便で一騒動あ…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の15 サンディエゴでは遊んだ記憶しかないのです
サンディエゴでは、国境の検問所を見た。アメリカからメキシコへ、メキシコからアメリカへ、人や…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の14 サンディエゴで遊ばせて頂いた
サンディエゴについては、やっぱり「グルメらかす」で書いている。ここも読者の手を患わせること…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の13 キャピタル・フライト
次の目的地は、アメリカ・サンディエゴである。ここでは「キャピタル・フライト」を取材する。キ…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の12 ミュージカル
そろそろロンドンを離れなければならない。ロンドン最終回の一部はコピペ、残りは 『確か…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の11 ロンドンの日曜日
ダブリンで1泊した私は、再びロンドンに戻って「プロジェクト金融」の取材を続けた。ロンドンで…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の10 ダブリンに足を伸ばした
実は、ここまで書いてきてある障害にぶつかった。私の「Tokyo Money」世界一周の旅は…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の9 プロジェクト金融
その頃、東京で膨れあがったお金は国内では使い切れなかった。米国の金融市場、不動産市場に流れ…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の8 ロンドン到着
ロンドンはもちろん初めて足をおろす町である、確か、ヒースロー空港に着いたのだと思う。私は行…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の7 香港での路上ナンパについて
「パンダとクマ」の原稿を仕上げた私には、もう香港に用はない。次の目的地、ロンドンを目指すば…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の6 同文同種の話
もちろん、香港では買い物ばかりしていたのではない。ちゃんと取材もした。 ところが、どんな…
重粒子線を使った治療が終わりました。
9月28日に始まった重粒子線による治療が今日で終わった。これで前立腺にがんが再発しない確率…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の5 内外価格差
「Tokyo Money」の旅は、私にとって「内外価格差」の実情を知る旅でもあった。取材が…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の4 香港・Excelsior Hotel
私が世界一周の旅に出かけたのは1987年9月のことだった。香港からロンドンに向かい、アイル…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の3 バイリンガルの苦労
「Tokyo Money」の連載は7月から始まった。まず2回目が私の担当だった。掲載された…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の2 「A級債」⇔「永久債」
「Tokyo Money」はYaさんと私でまとめる連載である。Yaさんは、直前は確か金融担…
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の1 私が国際金融の取材なんて……
東京に戻ってきた。時は1987年5月である。 横浜の我が家では長男が公立の中学校1年生と…
私と朝日新聞 北海道報道部の21 札幌の悪い思い出
妻女殿の両腕の手首か先が真っ白になったのは、札幌で初めて迎えた冬だった。 「なんでこ…
私と朝日新聞 北海道報道部の20 札幌、我が家のあれこれ
私は家族を、三重県津市⇒岐阜県岐阜市⇒名古屋市⇒千葉県浦安市⇒横浜市鶴見区⇒札幌市、と連れ…
私と朝日新聞 北海道報道部の19 札幌ジンギスカンのガイド
札幌出身、東京の女子中高一貫校で長く働き、いまは桐生に移り住んでいるMaさんなる友人がいる…
私と朝日新聞 北海道報道部の18 道東を旅したの2
道東旅行3日目。何事もなくバンガローで目覚めた。手近なもので朝食を済ませると、私たちは車に…
私と朝日新聞 北海道報道部の17 道東を旅したの1
夏休みを利用して道東を旅したのは1985年8月である。 「旅をしたい」 と言い…
私と朝日新聞 北海道報道部の16 札幌で横浜の博多ラーメンを食べた話
蘇ってくれる記憶に関する限り、札幌での仕事の話は出尽くした。これからしばらく札幌での暮らし…
私と朝日新聞 北海道報道部の15 札幌ア・ラ・カルト
札幌に赴任したサラリーマンは2度泣くといわれる。 1度は札幌転勤の辞令が出て 「あ…
私と朝日新聞 北海道報道部の14 餞別の問題
私に、東京経済部に戻れとの辞令が出たのは1987年3月末か4月頭のことである。この年、統一…
私と朝日新聞 北海道報道部の13 仕事のあれこれと不倫の話
札幌での仕事に関することでまだ書いていないことをを思いつくままに拾ってみる。 【大晦…
私と朝日新聞 北海道報道部の12 テレビ局に天下れなかった話
人には相性というものがある。北海道にどうしても相性が合わないデスクがいた。社会部から来た …
私と朝日新聞 北海道報道部の11 札幌では風邪をひかず、東京で風邪をひいた話
何度か東京に出張した。そのたびに、人の感覚の不思議さを思った。 札幌は大都会だと言わ…
私と朝日新聞 北海道報道部の10 道内経済面
仕事の話を続けよう。 道庁を担当して半年ばかり過ぎたころ、私は「道内経済面」を立ち上げた…
私と朝日新聞 北海道報道部の9 「お車代」を押しつけられた話
まだ道庁担当だったから、札幌赴任から半年もたっていない時のことである。北海道の自民党が集会…
私と朝日新聞 北海道報道部の8 厳冬の峠道
あれは選挙の取材だった。季節は真冬。厳寒期の2月だったと思う。私は池田ワインで有名な池田町…
私と朝日新聞 北海道報道部の7 炭鉱の閉山が相次いだ
私が札幌にいた1985年から87年という時期、北海道は不況のどん底にあった。造船が振るわな…
私と朝日新聞 北海道報道部の6 耳の穴にウイスキーを注ぎ込まれたヤツがいた
Muの話を続ける。 ある朝、Muは私の顔を見るなりいった。 「Ma、あいつはひ…
私と朝日新聞 北海道報道部の5 衆参同日選の惨劇
前回ご登場いただいた、政治部から来たデスクをMuという。私の着任時は、政治部から来たデスク…
私と朝日新聞 北海道報道部の4 自民党からクレームが来た
横路知事がらみのの話を続ける。 1987年、横路知事は再選を目指して道知事選に立った…
私と朝日新聞 北海道報道部の3 函館にて
横路知事に同行して、函館に行ったことがある。知事が函館の若手経営者と懇談する。その会合は公…
私と朝日新聞 北海道報道部の2 一村一品運動
実は、札幌以降のことはほとんど記憶に頼るしかない。そのころから記事の切り抜きをサボり始めた…
私と朝日新聞 北海道報道部の1 ああ、札幌
札幌のことは、「グルメらかす」で書いたことがある。これからの記述は、あの時書いたこととダブ…
私と朝日新聞 東京経済部の19 タートルネックが目をつけられた
ほぼ週1のペースで柔道を楽しみ、時にはおかしな釣りに出かけ、取材をして特ダネで1面トップを…
私と朝日新聞 東京経済部の18 国と地方の上下関係を如実に見て、でも記事にできなかった話
役所内を廊下トンビする。官庁担当記者の毎日である。聞き出したい話を持っている官僚氏、暇そう…
私と朝日新聞 東京経済部の17 私の記事、朝日新聞の紙面で褒められていました
建設省担当時代を思い出すため、当時の切り抜きを見ていて、1つの記事が目にとまった。「デスク…
私と朝日新聞 東京経済部の16 吉永小百合さんと昼飯を食った話
新聞記者にも、ほんのちょっとした役得はある。私が経験した役得は、どうでもいいような会話から…
私と朝日新聞 東京経済部の15 入社試験用作文の指導をした
私を柔道に引きずり込んだ I さんは面倒見のいい先輩だった。恐らく人脈も広く、早稲田大学の…
私と朝日新聞 東京経済部の14 キーボードにミスタッチをしても地球は爆発しない!
建設省には省内誌があった。誌名は忘れたが、そこから声がかかった。 「大道さん、何か原…
私と朝日新聞 東京経済部の13 お上意識
土地・住宅問題に関わる記事を沢山書いたからだろうか、住宅局の官僚諸氏とはすっかり仲良くなっ…
私と朝日新聞 東京経済部の12 大道なら記事にしてくれるのではないか?
さて、そろそろ仕事の話に移ろう。 住宅問題は社会問題であるだけでなく、相変わらず私の…
私と朝日新聞 東京経済部の11 建設省の担当になって柔道を再開した話
通産省を1年担当すると、私は建設省担当を命じられた。それまで経済部に建設省担当はいなかった…
私と朝日新聞 東京経済部の10 天下りをしない官僚
Sさんは私が通産省担当になった当時、貿易局総務課の課長補佐だった。東大卒が掃いて捨てるほど…
私と朝日新聞 東京経済部の9 釣り仲間
「東京経済部の3 またまた引っ越しました」で書いたように、のちに横浜市鶴見区の義父の敷地に…
私と朝日新聞 東京経済部の8 バッティング
通産省担当になって、夜回り取材はほぼ習慣となっていた。昼間は通産省を廊下トンビして取材(議…
私と朝日新聞 東京経済部の7 IBM産業スパイ事件
とんでもない事件が起きたのは、私が通産省担当になって3ヶ月もたたない1982年6月のことだ…
私と朝日新聞 東京経済部の6 方針原稿
さて、私は通産省担当としてどんな仕事をしたのか。 スクラップをめくると、マクロ経済の動き…
私と朝日新聞 東京経済部の5 質問をしろ!
「大道君、君は記者会見で質問してるかね」 夜の遅い時間、会社の経済部に顔を出した私に…
私と朝日新聞 東京経済部の4 通産大臣たち
私が通産省担当になった1982年4月、時の首相は鈴木善幸氏だった。通産大臣は安倍晋太郎氏で…
私と朝日新聞 東京経済部の3 またまた引っ越しました
ちょっと脇道に逸れる。私の住まいである。 浦安に引っ越した我がファミリーは、しばしば…
私と朝日新聞 東京経済部の2 通産省という役所
東京経済部で最初の担当は通商産業省(現経済産業省)であった。2度の石油危機を乗り越えて、日…
私と朝日新聞 東京経済部の1 浦安というところ
前回、 「一路東京を目指した」 と書いたが、実際に目指したのは東京を通り抜けた…
私と朝日新聞 名古屋本社経済部の26 加藤さんの話
名古屋を離れる前に、どうしても触れておきたい人がいる。スーパー、ユニーの広報室長だった加藤…
私と朝日新聞 名古屋本社経済部の25 血の気が引いた話
一瞬にして血の気が引く経験など、そう滅多にあるものではない。私が真っ青になったのは1982…
私と朝日新聞 名古屋本社経済部の24 特ダネ街道
工販合併へ、のl記事を書いたころ、私は絶好調だったようである。 その話も、工販合併の話を…
私と朝日新聞 名古屋本社経済部の23 余震はまだまだ続いた
余震は、それからも続く。 まず、日本経済新聞のトヨタ担当記者が1人から4人に増えた。…
私と朝日新聞 名古屋本社経済部の22 特ダネとその波紋
新聞には「早版交換」という習慣がある。印刷所から遠いところに届ける新聞を早版という。早く送…