08.12
2009年8月12日 色眼鏡
前回ご報告した新しい眼鏡が、昨日来た。いくら新しいものがいいとはいえ、新しい女房になじむには、まず使ってみなくてはならない。眼鏡だって同じだ。今日は朝から、新しい眼鏡をして車に乗った。
新しい眼鏡は、着脱式のサングラスがついている。これから車を運転するのだ。当然、サングラスを装着してのテストランである。
キーを差し込み、エンジンをかけた。
「あれっ?!」
おかしい。カーオーディオの電源がOFFだ。いつもはオレンジ色の光を放っているディスプレーが暗いまま。そんなはずはない。車のメインスイッチと連動しているカーオーディのスイッチは入れっぱなしのはずだ。昨日も電源を切った覚えはない。いったい、何が起きたのか?
念のために、カーオーディオの電源ボタンを押してみる。何も起きない。ディスプレーは暗転したままである。何度押しても、光を放たない。
車検を受けたばかりなのに、いや、保証期間が終わったばかりなのに、いや、終わった直後だから、壊れた?
運転席左のボックスから、iPodを取り出した。車での音源は常にiPodである。本体を覆っている皮ケースのふたを開ける。
「あれっ?!」
液晶ディスプレーが変だ。下の方に、円形になった虹がかかっている。確かに、これはカラー液晶だ。だが、部分的に虹がかかるのは異常である。
桐生の夏の日差しにさらされっぱなしの車中に置いていたから、壊れた?
何という日であろう。カーオーディオが壊れ、まるで抱き合い心中をするかのようにiPodのディスプレーが異常をきたす。確かに、抱き合い心中は色っぽい。あこがれないわけではないが、機械が同時に2つも壊れるのは願い下げだ。
8月12日とはとんでもない日である。
非常時に、人間の本姓は現れる。私という人間は、いかにもちっぽけである。政権が交代しそうなことも、静岡を中心に大きな地震被害が出たことも、今日は妻の歯科への通院日であることも、すべて頭から消えた。頭を占領したのは、
「どうしよう? カーオーディオは修理する? 結構金がかかるぞ。奥さん、怒る? 冗談じゃないって、三角の目になる? でも、最近の私の暮らしは、大半が車の中だ。車で東奔西走するのがいまの仕事だ。運転中に音楽がないのはつらいではないか? いまだに私の稼ぎだけで妻が食っている以上、修理費を払いたくないということはないのではないか? うん、きっとそうだ。だったら、いっそのこと、カーオーディオを買い換えるか? BMWの純正って音が悪いんだよな。どこの製品が音がいいかな? そうだ、iPodに対応しているヤツじゃないとな。いまはAUX入力だから、iPod本体で操作しなければいけないし、車のメインスイッチとの連動もないから面倒なんだよ。新しく買うんだったら、便利なヤツにしなくちゃ。どこで買ったら安いかな?」
「ああ、そうだ。iPodもいかれてるんだな。こいつはもう決まりだ。iPod touch。iPhoneと同じ操作感らしいし、やっぱりデザインが秀逸だよな。よし、 そうしよう」
そんなこんなを考えながら、目的地に向かって車を運転した。まあ、買い換えの方針はたった。気に病むことは何もない。ドライブのお供に音楽がないのが寂しい程度である。なにしろ、カーオーディオの電源が入らないのだから、iPodの音楽はもとより、FM、AMだって聞けないのである。しばらくは我慢するしかない。
と心は決まった。決まったのに、壊れた機械が何となく気になるのも人間の、いや私の性癖である。
信号待ちを利用して、ディスプレーの一部が丸い虹になってしまったiPodを取り出し、再生ボタンを押してみた。すると、驚いたことに、再生を始めるではないか。
いや、カーオーディオは電源が入らないままである。だから、音楽が流れ出したのではない。iPodをお持ちの方にはご理解いただけると思うが、ディスプレー上で、楽曲の残り時間が1秒ずつ減り始めたのである。
「へーっ、ディスプレーはいかれたのに、ほかの機能は生きてるんだね。液晶ディスプレーって、そんなに弱いものなんだ」
iPodは赤面症ならぬ虹面症になりながらも、しぶとく生を保った。これでiPod買い換え計画は無しである。まあ、いい。機械はいずれ壊れる。touchに変えるのはそれからでもいい。
「でもなあ、iPodが生きていたとしても、カーオーディオが壊れてたんじゃ、車の中で音楽は聴けないし」
と思いながら、何故かカーオーディオのボリュームをひねった。ひねっても出るはずがない音を求めたのではない。多分に無意識の行動だった。壊れていることを確認したかっただけかもしれない。
音楽が流れ出すはずは、なかった。電源が落ちたアンプから音が出れば、オカルトの世界である。どこかの教授と同じく科学に万全の信頼を置く私の暮らしに、オカルトは無縁である。
無縁であるはずだった。なのに、どこからか音楽が聞こえてきた。
「おかしいな? どこかで音楽を流してる?」
四方を見渡した。渡良瀬川沿いの道である。どこにも野外放送を流す設備は見あたらない。それに、流れ出した音楽は、私がiPodに入れた音楽である……。
となると、あれか? ディスプレーが暗転したままのカーオーディオが、iPodの送り出す音楽を増幅しているのか? それって……。俺も、どこかのオカルト教団に入信しなければならないのか? それとも、自分で教団を作って、贅沢三昧のハーレム生活を始めるか?
ボリュームをさらにひねった。音楽が大きくなった。間違いない。確かに増幅している!
おいおい、お前の耳は確かかよ。どうしてボリュームを上げるまで音が聞こえないんだ? お前は、老人性耳不自由症に近づいたのか?
とご不審の読者もいらっしゃるはずだ。ご説明申し上げよう。
まず。
いま乗っているBMWの純正カーオーディオは、不思議な振る舞いをする。どれほどボリュームを上げようと、一度エンジンを止めると、ボリュームはデフォルトに戻る。iPodが送り出す音楽信号はレベルが低いらしく、このデフォルトのボリューム位置ではよく聞き取れない。これが1つ。
今ひとつは、日差しにさらされた我が愛車の室内は熱帯状態になっており、エアコンが最大の風力で冷たい風を吹き出していたことだ。これはかなりうるさい。この雑音にマスキングされて、デフォルトのボリューム位置で再生されたiPodの音楽は、私の耳にはまるで聞こえなかったのである。
「そうか、カーオーディオで壊れたのはディスプレーだけか。だったら、買い換える必要はないな。でも、ディスプレーが暗転したままでは使いにくいなあ。さて、この修理にいくらぐらいかかるんだろう?」
目的地に着いた。さて、これから人に会わねばならぬ。眼鏡から着脱式サングラスをはずした。カーオーディオを見る。
「あれっ?!」
暗転していたカーオーディオのディスプレーがオレンジ色の光を放っている。
「直ったの? どこか接触が悪いだけなの?」
と考えはじめて、ふと思い出した。眼鏡屋の店主の話である。
「新しい眼鏡、無駄なんだよなあ。落とした眼鏡は出てきたし、度付きのサングラスだって持ってる。目は一組しかないし、一度にかけられる眼鏡は1つだけ。これ、無駄なんだよなあ」
大枚4万円を払いながら嘆く私に、店主はいったものだ。
「この、新しい方のサングラスは偏光グラスですから、便利ですよ」
偏光グラス? ひょっとして、偏光グラスだからディスプレーが暗転した?
もう一度サングラスをつけて、ディスプレーを見た。真っ暗だ。眼鏡を外す。オレンジ色に光ってる。眼鏡をかける。暗転する。首をかしげる。オレンジ色の光が甦る。偏光グラスとは、角度によって光を通したりと押さなかったりするものらしい。
「そうか、偏光グラスって、こんな見え方をするのか!」
それが何の役に立つのかはよくわからない。昔、偏光グラスだと、釣りをするときに浮きの動きがよく見える、水中の様子がはっきり見える、と何かで読んだ記憶があるが、釣りをしなくなって長い私にはどうでもいい。
と思いながら、ふと思いついた。
「iPodのディスプレーも、偏光グラスのせい?」
眼鏡を外してiPodのディスプレーを見た。どこにも虹はない。眼鏡をかける。虹が現れた。
8月12日、すべての不幸は、新しい眼鏡の副作用であった。
というか、先週末からこっち、俺って眼鏡に振り回されてるよな。これで、現在保有する眼鏡は5個。
ああ、眼鏡不要の年代が懐かしい!