10.13
2010年10月13日 久しぶりに
仕事に出た。11連休のあとのである。まずは、この間の無沙汰を関係先に詫びて回った。皆、嵩悟の誕生、長女の無事を喜んでくれた。いい人ばかりである。
こいつ、ろくでもないヤツだ、というヤツらとは、最初から付き合わないようにしているから、当たり前といえば当たり前だが。
という1日で、私の周りには特筆すべきことはない。
やっぱり今日は、チリ鉱山の日であろう。落盤事故で地下700mに閉じ込められた作業員の救出作業が始まった。
といっても、私にそれほど関心があるわけではない。何しろ、行ったこともない地球の裏側の出来事である。現地には知人も友人もいない。そこで全く知らない人びとが事故に遭い、全く知らない人びとが救出にあたった。
ま、はっきり言って他人事である。
それなのに、何と多くの人びとがこの事故に関心を寄せることか。NHKの7時のニュースを見ていたら、電気店の店頭で救出作業をテレビで見ながら、ハンカチを目に押し当てる女性が写っていた。
心優しい人、ともいえる。
訳の分からん人、ともいえる。
何でそんなに悲しいんだろう?
私は、そんな訳の分からん人ではないから、この事故、一連の救出劇を覚めた目で眺める。
まず、これで得した人は?
チリでは、事故発生以来、内閣の支持率が10%ポイントも上がったそうだ。作業員の救出に全力を挙げているようにメディアが報じたことが好感されたのであろう。
だけどね、こんな事故に直面すれば、どんな内閣だって救出に全力を挙げるはずだ。いまの内閣に、人格、識見優れた人びとがそろっているから救出劇が起きたのではない。
たまたま事故発生時に存在した内閣の支持率が跳ね上がるとはどういうことだ?
尖閣列島問題で支持率が急落した日本の内閣は、まあ、身から出た錆といえる。
では、チリは?
ラッキー、ってか?
にしても、である。
やはりメディアとは、人様の不幸を飯の種にする人びとの集まりらしい。私が最も違和感を感じたのは、メディアのはしゃぎぶりである。 NHKに至っては、救出用カプセルの模型まで作り、アナウンサーが中に入って解説する丁寧さだった。
俺たち、そんなことまで知りたいか?
俺たち、そんなことに金を払いたいか?
冷たく断言する。メディアにとって事故とは、実に扱いやすい商材である。
落盤事故で全員が死亡していたとしよう。メディアは悲惨な事故が起きた。安全管理に落ち度はなかったのか? 遺族の思いは? とはしゃぎ回る。それで紙面が埋まり、テレビでは時間が埋まる。その時間が終われば、にこやかに
「では次のニュースです」
と山の紅葉が始まった話に移る。
33人が地下700mで生きていた。確かに珍しいケースだ。こうなれば、メディアにとってのニュース価値は跳ね上がる。珍しいから、読者も視聴者も関心を持つはずだ、と彼らは考える。報道合戦と呼ばれる、みんながばらばらに同じことをする喜劇が始まる。金をかけて人材と機材が現地に送り込まれ、ああでもない、こうでもない、との情報がばらまかれる。
でもさあ、これって単純な事故なんだよな。別に、民族対立が招いた悲劇でもなく、不毛な政治が原因となった殺戮でもない。あんたら、そんな本当の悲劇を全力を挙げて報じたことがあったか?
単純な事故なのに、これほどまでに報道合戦を繰り広げる意味がどこにある?
あなたたちのやっていることは、珍しいもの見たさの野次馬根性にアピールするワイドショーと、どこか違いがあるのかな?
いま、メディアにとって一番喜ばしいことは、救出劇の途中で事故が起き、犠牲者が出ることである。また報じるネタができ、レポーターが作り物の深刻な表情でテレビカメラの前に立つ。
救出を目前にした悲劇
を思い入れたっぷりに伝える。そして、自分の時間枠を務め終えたら、宿舎に帰って
「いやあ、今日はいいレポートができた」
なんて自己満足しながら、酒を飲んでワイワイと仲間内で盛り上がる。
ねえ、こんな茶番報道、もういい加減でやめないか?
世はネット時代である。あんたらが、たっぷりすぎる時間と金を投じて現地報道しなくても、ネットには様々な情報がアップされるのだ。
こんなことをやっている暇があったら、ネット時代、既存のメディアの果たすべき役割は何かをもっとじっくり考えてみてはいかが? 既存メディアの先行き、真っ暗だぜ。
そうそう、あんたら、内田樹の「街場のメディア論」(光文社新書)ぐらい読んだんだろうな?
にしても、33人、全員無事で地上に戻って欲しいものである。
そうそう、一連の報道で一番笑ったのは今朝の東京新聞。
何でも、地下に閉じ込められた作業員の妻が現場に駆けつけたら、夫の愛人も駆けつけていてご対面と相成ったそうだ。
無事に地上に戻っても無事では済みそうにない作業員さん、どんな思いでカプセルに乗り込むのだろう?