11.13
2010年11月13日 読売とは
すっかりサボってしまった。
この1週間、昼間は何となく仕事に追われ、夜は酒に追われた。夜の席がない日ももちろんあったのだが、何となく疲れが抜けず、テーマを決め、文章を書く気力がわかない。早めに布団に入り、翌朝
「寝る時間が長いと確実に腰に来るなあ」
などと嘆きつつ起き出して仕事に向かう。そんな繰り返しだった。
何のことはない。私も若くなくなった。それだけのことである。
なのに、この間も、沢山の方が更新されない「らかす」を訪れていただいた。
感謝と、期待を裏切ったお詫びを申し上げる。
にしても、である。
読売新聞って、どんなヤツらが作っているのだろう?
読売新聞のコラム「編集手帳」のいい加減さは「2010年10月28日 これもいじめ」で書いた。まあ、このコラムを書いている竹内氏が「らかす」など読んでくれるはずもないから、私の文章はごまめの歯ぎしりではある。
それはよい。しかし、今朝の読売新聞には怒りすら感じた。
「群馬小6自殺 校長、当日連絡つかず 自宅不在 電話不通 翌朝初めて知る」
上村明子ちゃんが自殺した日、学校が校長に連絡しようとしたが、できなかった。自宅の電話は電話線を外してあり、携帯もつながらなかった。それだけのことである。
これに、したり顔をした大学教授の談話がくっついている。この人、なんでも京都大学大学院の教授であるらしい。
「危機管理上問題がある。学校の管理職は、不審者や災害など、子供の生命にかかわる事態を想定し、緊急時には必ず連絡が取れる状態を確保する必要がある」
とここまで書いたら人が来た。なんでも、私と夕食がしたいそうだ。
というわけで、続きは戻ってから、ということに。
戻りました。
多少酔ってるけど、まあ、この後は酔った勢いということで。
この記事に、なぜ私が怒ったか。話はそのあたりから始めるしかない。
おい、これを書いたアホどもよ。あんたら、そこまで校長を虐めたいのか? これって、公器を気取る新聞による虐めであるとの認識は、あんたらの鈍い頭には思い浮かばなかったのか?
まず、この話は自殺事件の本質とは全く関係がない。明子ちゃんという女の子が自ら死を選んだことへの後始末の問題である。この日、校長が携帯電話にすぐ出たところで、明子ちゃんはすでに冷たくなった後のことである。 すでに、明子ちゃんの命を救うことはできなくなってからのことだ。
時流に乗ろうと考えた三流の学者は
「学校の管理職は、不審者や災害など、子供の生命にかかわる事態を想定し」
というが、これはそんな事態ではないことは明らかなのである。ことは子供の生命にはかかわらない。危機対応と、事後処置の問題を混同してもらっては本質が見えなくなる。
もう少し頭を整理して話していただきたい。
もっとも、長い話をした中から、読売の記者が適当なところだけをつまみ出して文章にまとめたのかも知れない。だとすれば、この教授さんは、読売新聞に抗議すべきである。
明子ちゃんが死を選んだのは土曜日であった。学校は休みの日である。ということは、校長にとっては休日だ。休日に何をしようと、非難されるいわれは全くない。
しかも、その休日を利用して外出した校長は、ちゃんと携帯電話を持っていた。その携帯電話に不具合があった、というのが読売新聞が報じた中身である。
だったら、仕方ないではないか。まあ、今時、携帯電話を携行するというのは、組織の長だけではなく、ほとんどの人が実行していることだ。だから、校長は
「不測の事態に備えて」
携帯電話を持ち歩いていたというつもりはない。だが、何かがあったら携帯電話に連絡が入るだろうと思っていたことは間違いないはずだ。
その携帯電話に連絡がなかった。だから、明子ちゃんの自殺を知らなかった。
それはやむを得ないことではないか。
明子ちゃんの自殺は、両親にとっても突然のことであった。ましてや、校長にとっては青天の霹靂であったに違いない。
校長が、家を出るときに明子ちゃんが自殺するかも知れないと考えたはずはない。学校で何かがあったら携帯に連絡が入るだろうと漠然と考えていたことも疑う必要はない。
このようにして外出し、自分の用事をこなしていて、携帯電話にには何の連絡もなかった。だから、校長は事実を知らなかった。
そのどこが非難されなければならないのか?
併せていえば、校長に連絡が取れないまま、学校からは教頭が明子ちゃんの自宅を訪れた。学校という組織としてはきちんと対応している。
なのに、なぜ校長は非難されなければならないのか?
自分では何ともすることができない「たまたま」が重なったために、全国に1,000万読者を持つと豪語する読売新聞に、無責任極まるといわんばかりに批判される。
これでは立つ瀬がない。
校長には、自分では何ともできなかった不運があった。
明子ちゃんの自殺は、予想もできなかった。
その日が土曜日で、学校にはいなかった。
休みだったので出かけた。
緊急の連絡はあり得る。だから、携帯電話を持ち歩いた。
その携帯電話がたまたま不具合で、連絡を受けることができなかった。
それだけのことである。
校長は、その不運を、
「お前は管理職として不的確である」
と非難される。
非難されても、そのもとは不運である。
「だったら、どうしたらよかったの?」
と途方にくれるばかりであるに違いない。
この記事を書いた読売新聞の記者たちよ、君たちには24時間、365日、何らかの手段で接触することができるのか?
酒に酔って寝込み、電話が来ているのに気がつかなかったことはないのか?
いつの間にか携帯電話の受信可能エリア外に出てしまったことはないのか?
携帯電話のバッテリーが切れて困惑したことはないのか?
携帯電話の電源を切らなければならないところに入ったことはないのか?
携帯電話の突然の不具合で困惑したことはないのか?
人を責めるだけの人は、やがて信用されなくなる。
私はもう、読売新聞を信用しない。
あなたは如何ですか?