12.06
2013年12月6日 ゾクゾク
夕刻、やっと我が家で実用段階に至ったネットワークオーディオで、
憂歌団ー生聞59分
Eric ClaptonーOne More Car,One More Drive
を聞いた。どちらもライブ音源である。
いい。いいものは、いい。まるでライブ会場にいるような音が体を包み込む。耳に、ではなく、体に突き刺さってくる音。音楽を聴いて体がゾクゾクするのは、クリスキットのプリアンプを初めて聞いたとき以来である。
憂歌団。ベースがきちんと音程を追う。リードとサイドのギターが、ちゃんと聞き分けられる。それに木村充揮のヴォーカルがかぶってもマスキングされることがない。
Claptonー私はかつて、武道館の一番前の席で、Claptonを聞いたことがある。目測で、Claptonとの距離は5m。唾が飛んできそうな場所だった。横に誰が座っていたかは言わぬが花である。
武道館で、あちこちの席に座ってClaptonを聞いたが、この最前列ほど鮮烈な音を聞いたことがない。しかし、今日、我が家のクリスキットセットから出てきた音は、その音をさらにクリアにした音だった。
とにかく、ベースの音程を正確に追うことが出来る。Claptonのギターだけを選んで聞くことが出来る。CDって、こんな音まで入っていたのか。
「ネットオーディオってすごいな」
と、キッチンにいた我が妻殿に声をかけた。
「うちにこんなCDがあったかなと思って聞いてた」
との答えが返ってきた。
そう、長年手元にあったCDから、全く違った音が出て来るのである。いや、違うだけなら意味がない。遥かにいい音が聞けるのだ。
いかん。これは久々に音にはまりそうだ。CDの時代は終わった。聞けば聞くほど、そんな気がしてくる。
私に、ネットオーディオを押しつけた東京のSさんに、深々と頭を下げて感謝せねばばならない。ありがとう、Sさん!
と、個人的には趣味の世界にのめり込んでいる私だが、外の世界では「特定秘密保護法案」を巡る動きがかまびすしい。
そこで所感をいくつか。
国として、一定の秘密を保持することは必要である。他の国々と付き合わざるを得ない世界で、何でもかんでも表沙汰にしての付き合いは無理である。人に話せない我が家の秘密、がすべての家庭にあるが如く、国同士にもある。
それだけではない。日本に秘密保護法がないが故に、
「日本政府に話すと、何でも表沙汰になっちゃう。あそこには公表されても構わない段階まで話さずにおこう」
という日本不信が多くの国にあるとも聞く。
お喋りに話すのは、しゃべられても構わないことだけ。日本が常にお喋りだと思われている限り、日本は世界の孤児になりかねない。
という立場からみると、これまで日本に、このような法律がなかったことの方が不思議である。
しかしながら、いま審議されている法案は困りものである。最もいけないのは、秘密を秘密とする期間が長すぎることだ。
「ねえ、60年っていったら、秘密にしなきゃいけないことをやった政治家だって官僚だって死んじまうよね。てえことは、死んだあとでしか公表されないんだったら、何やっても構わないっていうことになる。それって、究極の無責任だよな」
桐生の知人の言葉である。私も全く同意する。長すぎる期間は、秘密を創り出す人たちの綱紀と倫理を限りなく緩める。
何年かたてば必ず公表される。だから、公表されても恥をかかぬようにせねばならない。それが人間の倫理を保つ術であるならば、秘密保持期間は、せいぜい20年、長くても30年ではなかろうか。
と考えながらも、
「でも、今国会で成立するんだろうな」
という諦めを私は持っている。だって、自民党と公明党に、何でも自由に出来る議席数を与えたのは主権者である国民なのだ。フリーハンドを手にした自民党と公明党が何をやろうと、それは国民がお墨付きを与えた結果に過ぎない。
だから、メディアに頻出する
「民主主義を破壊する暴挙」
という見方は、私は取らない。
自民党と公明党が勧めているのは、暴挙ではない。民主主義は多数原理に基づくという通念のもと、その多数を生かして政策を決めているだけである。それが、いまいう民主主義なのであって、「暴挙」というのは、主観に浸りすぎた言葉の遊びに過ぎない。
だから、その言葉は実態としての力を持つことが出来ず、
「メディアの連中、取材が出来なくなっておまんまの食い上げになるって心配してるだけなんじゃない?」
と、痛いのか痛くないのか分からない腹を探られることになる。
そもそも、民主主義の基礎は選挙であるという幻想を国民に押しつけているのはメディアではないか。その選挙で絶対多数を得た政党が、フリーハンドで政策を遂行するのは、メディアのいう民主主義の当然の結果なのである。それに異論を挟む論理はないはずだ。常日頃、選挙を絶対視する説をまき散らしながら、それがもたらした結果について
「民主主義に反する」
と異論を述べる権利を、メディアはどこから手に入れたのか?
選挙を絶対視する以上、メディアが主張できるのは、
「だから、次の選挙で違う政党に政権を与え、この法律(今日時点ではまだ成立していないtが)を廃止しようではないか」
ということに尽きる。
まあ、確かに、アンチ自民党の受け皿になり得る政党は、民主党が融けてしまった現在、何処にも見あたらない。その絶望感も手伝ってヒステリックに叫びたくなるのかも知れないが、叫んだところで現実が変わるわけでもない。叫びすぎて喉がかれるのが関の山である。
メディアは、あの下らない民主党を持ち上げ過ぎた前非を悔いなければならない。あなたたちが持ち上げた民主党の、鳩山から菅、野田と続いた3代の政権への
「なんじゃ、こりゃ」
という驚きと失望感が、自民党に恐るべき議席数を与えた。それが今日を招いているのである。
では、どうしたらいいのか。
ローマは一日にしてならず
目先の変化では仕方がない。世の中が根底から変化しなければ、よりよい社会は生まれない。
じっくりと腰を据え、多方面に目を配りながら、一喜一憂せずに次の社会につながる石を積み上げる地道な努力を、マスメディアはする気があるのかどうか。
消費税率引き上げを目前に、新聞・出版物には軽減税率の適用を、と政治にすり寄るだけが、メディアであってもらっては困るのである。