2014
04.23

2014年4月23日 入学式

らかす日誌

「お前、子供たちの入学式って、行った?」

遅めの夕食を口に運びながら、妻女殿にお尋ねしたみた。
最近、メディアの一部で話題になっている

高校1年生のクラス担任が、入学式当日に休暇を取り、自分の子の入学式に出た

という件が頭にあってのことだ。

なんでこんなつまらないことに皆の視線が集まるのか。私ににはトンと理解できない。
理解できないついでに書くと、「けしからん」派の言い分も、「当然の権利行使」派の言い分も、私には理解できない。この人たち、どんな基盤に立ってものを考えてるんだろう? 世の中には分からぬことが多い。

「けしからん」派はいう。

「高校生活を今日から始める子供たちの担任は、一人一人がどんな希望、不安をもってこれからの高校生活に臨もうとしているのか、を初めて知るのが入学式です。この日から子供たちのとの暮らしが始まる。その日に、自分の担任が休暇を取っていることを知った子供たちは裏切られたと思うに違いない」

おいおい、あんた、自分が高校生になったときのことを覚えてるか? あんたは、初めて目にしたオッサンか叔母さんに、担任だからといって何か期待したか? もしいなかったら、不安になったか?
俺なんぞ、担任に期待するものなんかゼロだったぜ。自分の人生は自分の人生。たまたま担任になったヤツがいいヤツだったら相談することもあるかも知れないが、まあ、世の中にそこまで信用できるいいヤツなんて滅多にいない。だから、別段、誰が担任になろうと、どうでもいい。担任の顔を覚えたのは、教室に入ってからだったと記憶する。
相談したければ、担任ではなくても、信頼できそうな先公を探せばいいわけだ。授業は、それぞれの専門の先生が来るわけだし、担任なんて、週に何回かしか顔を合わせないだろ?
どうしてそんなに大げさに考えるわけ?

かといって、「当然の権利行使」派にも、けしからん派以上の違和感を持つ。
あんたらさ、世の中って、人間と人間がからみ合いながら生きている世間ってさ、己の権利を行使することだけが正義なのかね? 己の権利を行使したら、誰かの権利を、あるいは感情を、利益を傷づけるかも知れぬ、とは考えたことはないのかね?
ん? それでも、権利を行使する権利を持ってるって?

あんたら、馬鹿である。
全員が、己の権利しか主張しない団体を思い浮かべてみなさい。さて、この団体はどうなるか。まあ、しっちゃかめっちゃかで、収拾がつかなくなるでしょう。
食事の時間。

「私、ステーキがいい」

「そんな、やっぱりお寿司ですわよ」

「カレーより美味いものがあるか?!」

「なんてったってしゃぶしゃぶよ」

「今日はハンバーガーがいいな」

「スパゲッティ」

「ラーメン」

「ケンタッキーフライドチキン!」

さて、この団体の夕食はどうなるのでしょう? 己の権利を主張して譲らないことが正義だとすれば、事態はこのようになる。
あんたさあ、この団体の世話役やる気ある?

無論、各人に権利はある。だが、それを裏打ちする義務もある。そして、各人の権利は他の人の権利と必ずぶつかるから、そこを何とか調整して調和を取るのが知恵というものだ。ねえ、だから、あんたたちには知恵がない
だから、馬鹿と決めつけるのである。


で、妻女殿との会話である。
妻女殿は、3人の子供たちの高校入学式には、すべて出られたそうだ。それを知らない私は、当然すべて出ていない。その後会話は、

「だって、立派に成長した子供の姿を見たいじゃない」

などとつまらぬところに向かったから、私は耳を閉じた。たかが高校に入ったぐらいで、立派に成長した? 成長の一過程ではあるが、高校に入ったから立派に成長したというのは間違いである。人が立派に成長したかどうかは、ずっと後まで分からないものだ。新聞の社会面を開けば実例はいくらでもあるじゃないか。世間を驚かせる悪事を働いた連中だって、高校ぐらい出てるのが多いんだぜ。
つまらぬ話は耳を閉じて、単なる空気の振動にしてしまうのが、身過ぎ世過ぎの技ではある。

ただ、妻女のの話がひとつだけ耳に残った。

「お兄ちゃんは、来なくていいっていったんだけど、私行ったわよ」

ほほう、我が息子は、高校の入学式に来なくていい、と母親にいったか。それは、あの時代、その年齢にしては、素晴らしい判断である。

私は、高校の入学式には1人で行った。「グルメらかす」をお読みいただいた方は我が幼少期についての知識が多少残っているかも知れぬが、オヤジは当てにならぬアル中で、来るとしたら母親しかいなかった。しかし、母親も来なかった。

「来なくていい」

と私がいった。
いや、貧しくてろくな衣服は持ってないから、などというのではない。忙しくて時間がないだろう、という思い遣りでもない。我が入学式に親が参列する必要性を全く感じなかったからである。

高校に入ったのは私である。これから勉強しなければならないのも私である。入学式とは、私が

「ああ、高校生になったな。人間的に大きくなりつつ、大学目指して、これから勉強するんだな」

と心を引き締めればいい儀式である。親が参列する必要など、何処にもない。

あ、当時の私がそのような殊勝な心がけで入学式に臨んだのではないことだけはいっておく。まあ、高校には当然いくものと考えていたし、田舎の高校だから当然のこととして合格したし、だから、喜びもなければ武者震いもなかった。昨日の続きが今日の入学式、というだけのことであった。
だから、入学しても、あまり勉強はしなかった……。

入学式とは、新入生のための儀式であって、新入生の親のための儀式ではない。
私はそう思っていたし、いまでもそう思う。だから

「そうか、我が息子もそう思っていたか」

と知ったのが嬉しかった。

で、学校を休んで、自分の子供の入学式出てしまった先生である。
彼女にいうことは、ひとつしかない。

子離れしなさい。子供は貴女のペットではない」

子供は親のために成長するのではない。生きるのではない。
親は、子供の成長をじっと見守っているだけの存在である。それをわきまえない親が多すぎるから、いまや大学の入学式に留まらず、企業の入社式にまで親が参列する。

日本の親はアホばかりになりつつある。
勝手にアホになるのは、勝手にせい、というしかない。しかし、おかげで世の中すべてがおかしくなりつつあることも、知らねばならない。

ああ、そうか。知らねばならないことを、どうしても理解できないヤツをアホというのだなあ。