2014
07.30

2014年7月30日 親子

らかす日誌

瑛汰と璃子がサンフランシスコから帰ってきた。
若さとは素晴らしいものである。すでに時差ボケもなく、昨日はプールに、今日は学習塾にと、2人は全く普通の生活をしているらしい。

それにしても、だ。
璃子が最初に覚えた英語は、次の通りであったという。

“I’m hungry.”

璃子、それは欠食児童並みではないか? お前、母親に充分食べさせてもらってないのか?


それにしても、だ。
何でも、現地で、私と長男の類似性が話題になったという。話者は、瑛汰と璃子の母親である次女と、長男の嫁である。

「ねえ、うちの旦那とお父さん、似てない?」

「似てる、似てる。そっくりよ」

「昨日もね、瑛汰と璃子がお腹をすかして、璃子ちゃんは“I’m hungry.”っていって、瑛汰君だってお腹がすいてしょうがないって顔してるのに、うちの旦那ときたら、『もう少し先に行くと、美味しいものが食べられるから待ってろ』だもんね。子どもって、お腹がすいたときがすべてじゃない。お腹がすいてたら、ハンバーガーでもいいと思うんだけど、旦那は絶対にファストフードはたべさせないのよね」

「そう、お父さんだってそうだった。わたしたちがどんなにお腹をすかしていても、『こんなまずいものをお前たちに食べさせるわけにはいかない。もう少し我慢しろ」って、何度言われたことか。親子って、こんなに似るのかねえ」

いや、録音機材を使って2人の会話を再現しているわけではない。これは、私が2人とそれぞれ個別に電話で話したことを元に、

「どうせこんなことを言い合って、お互いに納得してたんだろう」

と考えた私の想像の産物である。が、実際の会話からそれほどかけ離れていないことに100円をかけることを個々に宣言する。100円で少なかったら1000円ならどう? 1万円といわれるとややビビるが。

それにしてもである。父と息子が似ていることを、食い物を仲介にしか語れない娘どもとはいったい何だ? お前たち、璃子の

“I’m hungry.”

に幻惑されすぎではないか?
2人には、より細部にわたる観察と分析を求めたい。


昨夜は同業者の送別会だった。8月1日付けで名古屋に転勤するのだという。
送別会に、挨拶はつきものだ。私も挨拶した。

「名古屋への転勤ということだが、私に名古屋の悪口を言わせたら、一晩あっても足りない。そのさわりだけ紹介すると」

と語り始めた私は、とうとうと述べた。

・名古屋には美味いものがない。時折美味い店を見つけたら、僥倖とすべきである。
・名古屋は壮大な田舎である、田舎度において桐生に遜色はない。
・名古屋はよそ者を受け入れない。名古屋に溶け込めた、と思うのは誤解である。
・名古屋の人は議論を嫌う。
・議論とは、見知らぬ相手を知るための最大の手段。名古屋の人はよそ者を知る必要を感じない。
・よそ者を排除する名古屋の人は、内輪の人と酒を飲み交わして満足する。
・名古屋の人は抽象的思考が苦手だ。難しい問題も、身近な人間関係で読み解いて理解したつもりになる。
・名古屋とは……

途中で、名古屋出身の若い女性が席に加わった。私は彼女にほほえみかけた。でも、それなのに、この時とばかりに先を続けた。

・名古屋に美人はいない。
・名古屋の女性は右手と右足を同時に前に出して歩く。少なくとも、そのように見える歩き方をする。
・従って、名古屋で美人を発見したら、掃きだめの鶴として崇めたてるべきである。

彼女にいわなかったのは、私は決して彼女を崇めたててはいないという事実であった。

うん、今日は名古屋の読者の皆さん、御免なさい!
でも、当たってると思いません?!