09.20
2014年9月20日 セクハラ
とは、
相手に影響力を行使できる立場を利用して性的嫌がらせをすること
である。
こうした正確な意味で「セクハラ」という言葉が使われる限り、セクハラをやったヤツが摘発されるのは当然である。それは、セクハラだからでなく、犯罪だからである。
そもそも、影響力を及ぼせる立場を利用するという根性がいけない。共同通信とかいうところの人事部長が、就職活動の会社訪問に来た女子学生にこれをやった。ホテルに連れ込んだというから穏やかではない。
「ねえ、君、魚心あれば水心、っていうじゃないか」
といわなくても、何しろ人事部長である。共同通信に就職したくてたまらなければ、断りにくいではないか。こういうのは立派な(?)セクハラであり、犯罪である。
いや、何もセックスがらみだけがいけないわけではない。
「あのさ、いま石巻の支店に空きがあるんだよなあ」
などと部長に囁かれれば、平社員は震え上がる(石巻の方、御免なさい)。かような無神経なのか、卑劣なのかわからないヤツを部長などにしてはいけないのだが、なぜかこんなヤツばかりが偉くなる。私の勤めた会社にもいた。
そういえば、一連の誤報騒ぎで更迭された朝日新聞の前編集担当役員、ある週刊誌によると、金融クラブのキャップ(担当記者で一番偉い人、ということだろう)をやっていたとき、後輩にいったそうだ。
「君、俺の後の日銀キャップになりたいんだって? だったら、俺の靴、なめてみる?」
このような輩に、人権を語る資格がないことは明らかである。
いや、話を本筋に戻す。
この国は、いつまで片言隻句を捉えて、
「セクハラだ!」
と騒ぎまわる愚を繰り返すのだろう。東京都議会で、男女共同参画社会推進議員連盟の会長になったばかりの自民党議員が、
「女性に対しては、今回で言えば、言われているのは、『結婚したらどうだ』という話でしょ。それはね、僕だって言いますよ。平場では」
これが問題発言だと騒がれた。テレビも新聞も一斉に噛みついた。
「とんでもない」
「本質が分かっていない」
「受け止める方がセクハラだと感じればセクハラなんですよ」
まあ、相変わらず、自分の頭で物事を考えず、流行語をつなげれば何かをいった気になる田分けの集団としか思えない。
えっ、お前もそんな発言をするのか、って?
いや、私はしない。美しい女性には、できるだけ独身を貫いていただきたい。だって、他の男といちゃついてもらいたくはないもん。
本質はそのようなところにあるのではない。
私は、人間は多少お節介である方がいいと思っている。お節介とは、多少なりとも、相手の立場に身を置いて
「自分ならこうする」
と考え、それを相手に伝えることである。
「結婚したらどうか」
も、そのような発言である。
それは古い価値観の押しつけかも知れない。だが、古い価値観が時代に合わなくなれば、いずれ消え去る。焦ることはない。見合い結婚の出番がすっかりなくなり、仲人がすっかりいなくなったようなものだ(結婚式用の形式としては幾分か生き残っているとしても)。
ほんの少しでいい。わずかばかりでいいから、お互いに、お互いの立場に身を置いて考え、発言する。
そうしないとどうなるか。相手のことを考えない会話とは、お互いが専ら自分のことを話す会話である。相手の領分には踏み込まないから、言葉が絡まり合うことがない。お互いにいいっぱなし、聞きっぱなし、である。そんな会話を1000時間続けたところで人間関係が深まるはずはない。かくして、人間関係がどんどん希薄になり、皆が大衆の中で孤独に生きる人になる。
寂しくないか、そんな社会?
都議の発言への批判で、記憶に残っているのがある。新聞で読んだか、テレビで聞いたかは忘れたが、
「だってね、女は一人一人事情を抱えてるんですよ。ほんとは結婚したいと思いながら様々な事情でできない人だっているんです。そんなときにね、『結婚しろ』なんて言葉は、もうどうしようもなく残酷で、深く傷つけるんです」
こんな論理が受け入れられる社会では、人は何も言えない。
例えば。
初対面の人に、挨拶代わりに
「今年は秋が早くて助かりますね。私、暑いのが大嫌いで」
といったら、ムッとされた。聞いたら、大量の夏物衣料が在庫になって頭を抱える洋服屋さんだった。
「えっ、あなた、桐生の方ですか。桐生っていい町ですよね。あの、松井ニットのマフラーが私、大好きで、4本持ってるんです」
嫌な顔をしたおじさんは、松井ニットとの競争に負けたマフラー屋さんだっだ(そのような方がいらっしゃるかどうかは存じません)。
オーディオが好きだというので
「えっ、俺もそうなんだ。でも、JBLなんて評判は高いけど、ろくなスピーカーじゃないね。しばらく使ってたんだけど、マルチアンプにしたらどうしても高域と低域の音が合わない。で、どちらもテクニクスに変えたら、これがもうバッチリあって、凄くいい音になってさ。値段は4分の1ぐらいなのに」
といったら暗い顔になった。なんでも、やっと最近、憧れのJBLを最近手に入れて、これが世界の名器かと感激して聞き始めていたところなんだって。
「おっ、しばらく会わないうちに何だかスマートになったね」
と声をかけたら、
「違うんだ。先日ガンが見つかって……」
いろいろなケースがあり得るし、私が生きてきた中でもいろいろなケースがあった。世の中とは、それぞれに異なった人間の集まりで、決して100%知ることのない相手と言葉を交わすのである。善意で、相手によかれとおもってしゃべっても、逆に相手を傷つけてしまうことは数限りなくある。
では、相手の事情が分からないから、決して相手に触れない範囲での言葉のやりとりに終始するか? そうして、何処までも孤立した人間の集団として生きるのか?
もちろん、人と人が完全に知り合うことはできない。しかし、少しでも距離を縮めたいと思いながら生きているから、言葉を使って相手の実態に触れようとするからまとまりがでいるのではないか?
言葉は時として人を傷つける。だが、傷つけない言葉ばかりでは、人は成長することができない。だって、自分に触れる言葉が皆無の社会では、人は生まれ落ちたときに持ち合わせた資質だけを頼りに自分を育てるしかないではないか。グサッと突き刺さる言葉、体験がなくては人は脱皮できないのだ。生まれ落ちた時のままで老いて死ぬ。それって、つまらなくないか?
そして、励まされるのも自分に突き刺さってくる言葉である。
日本人は感染症に弱いといわれる。外国に出て、現地の人は平気で飲んでいる水でお腹を壊す。私もメキシコで壊した。原因は、日本が清潔すぎて免疫を持ちようがない社会だからという。
毒が全くないクリーンルームでは、健康な生きものは育たないのである。
あちこちに目を光らせ、セクハラ発言をあの手この手で摘発するメディアは、日本全体を言葉のクリーンルームにする気なのか?
まとめる。
厳密な意味におけるセクハラはすべて摘発してなくさねばならない。
が、それ以外はもっとゆるやかに、不規則発言を楽しむぐらいのゆとりを持つ社会にならねば、ひ弱な、神経質な人間ばかりになる。それで皆幸せか?
私は、そんな社会はまっぴらである。