2015
06.01

2015年6月1日 母はバリへ

らかす日誌

昨夕、九州から戻ってきた。

まあ、齢を重ねるとはこのようなことをいうのであろう。
29日は朝8時すぎに車で桐生を出て横浜まで行き、次女一家の住む我が家に車を置いて羽田へ。あとは飛行機に乗って、バスに乗って、久しぶりに母と弟夫妻の顔を見て、隣の親戚に挨拶、午後6時過ぎから夕食に出て酒を飲み、戻って寝た。
翌日は父の弟嫁、つまり義理のおばさんが入院中なので見舞い、母の弟、つまりおじさんが入院中なので見舞い、ラーメンを食べて弟と田川へ。これも母の弟であるおじさんの顔を見に行った。
1泊して、弟の車で福岡空港へ。あとは飛行機に乗り、次女の家まで車を取りに行って、あとはひたすら桐生に向かって車を走らせた。

たったこれだけの旅である。それほど体を動かしたわけでもない。なのに、何となく疲れた。

何となく疲れて桐生に戻った私の顔を見ても

「お帰り」

ともいわずに無言の行を続ける妻女殿を怒鳴りつけ、早々と風呂に入って夕飯を食べ、あとは何をする気力も沸かず、早めに布団に入った。そう、音楽を聴こうという気力も起きなかった私であった。

まあ、今日は平常に戻ったからいいようなものだが……。

で、ご心配をかけたかも知れないので、とりあえずの報告をしよう。

母は確かに惚けていた。
が、私の顔を忘れるほどではなく、長男が戻ってきたことはしっかり認識していた。
外に出ての夕食では、ビールを飲みながら、目の前に並ぶ刺身や揚げ物など、あらゆるものを口に運んで健啖であった。

「お袋は、とにかく食ぶっとよ。テーブルに出とるとは残さんもん。嫁の前にあって自分の前にないもんば見つけると、『それ、何ね?』ちいうて欲しがっとたい。よー食うばい」

と弟はいう。なのにスリムだ。

「だけん、頭は惚けとるばってん、体はどこも悪かとこのなかて、医者もいうもん」

はあ、惚けて健康。いいような悪いような……。

その母と弟は、まあ、私の前でも激しい言い争いをする。

「何ばいいよっとね。あんた、誰のおかげで太なったと思とっと? 私が苦労ばして育てたけんやろが」

「育ててもろたとは18までたい。ばってん、俺があんたの面倒ば見とっとはもう30年ばい。あんたに恩ばきせらるるいわれはなか!」

「私はね、女学校ん時は、成績はずっと1番やったとよ。そりが、なんであげんかバカ親爺と一緒にならんとでけんかったとね。ほんなこて苦労ばしたとは、あんた、分からんやろが!」

「そりゃあ、あんたに女ん魅力のなかったけんたい。成績のよかけん魅力のあるちゅうわけじゃならろが。魅力のあったら、もっとよか男と結婚したかも知れんやろが」

まあ、罵りあいである。母が惚けているため、同じ罵りあいが連日繰り返されているらしい。精神衛生上はすこぶるよろしくない。

「おい、惚けたばあさんとまともに喧嘩をしてどうする」

と弟をたしなめた。
だが、弟にしても、憎くて罵っているのではない。

「お袋が惚けるなんて……」

大事な母親が惚け始めた事実を、なかなか受け入れられないのである。それが苛立ちになって荒い言葉をつくってしまう。
まあ、始めて現場を見た私にいわせれば、

仲が良すぎて喧嘩して

というのが見え見えで、何となく私が仲間はずれになった感もしたが、まあ、親を置き去りにして自分の生活をしている私には発言権はない。

「だけどな、ボケを止めるのは笑いだというぞ」

と私はいうが、今私が弟の立場にいたら、果たしてそれを実行できるのか? 弟を責める資格は私にはない。

母の世話をし続けていてくれる弟嫁は、つい先頃まで、母と一緒にいると血圧が上がると、バリ島に戻っていたこともある。だが、

「お母さんが惚け始めて、少し気分が楽になった。そう、少し可哀想になったから」

以上が母を取り巻く現実である。

その現実を踏まえて、母を桐生に連れてくるプランは放棄した。まだ、これだけ頭がしっかりしている現状では無理である。実行するにしても、もっとボケが進むのを待つしかない。
というわけで母は今月、バリ島に行くことになった。弟たちと一緒に行く。島の高台にあり、極めて涼しく過ごしやすい別荘地に家があり、そこで絵を描きながら過ごすのだそうだ。とりあえず2ヶ月のバリ滞在である。しばらく前にはいやがっていた本人も今ではその気だ。
とりあえずは、世界のリゾート地での優雅な日々を楽しんでもらう。あとのことは後で考えるしかない。


で、行ったついでにと、

「ひょっとしたら、これが最後になるかも知れない」

という親戚を尋ねたことは冒頭に書いた。

うち、義理のおばさんは、前々から心臓が悪く、今回も心臓で入院中。病院に尋ねると大変に喜んでくれた。見ると、病はなかなか重いらしく、もう骨と皮に近いところまで痩せている。

「元気そうだね。間もなく米寿だよ。その祝いには帰ってくるから、どこかで男でも見繕って待っててね」

といっておいたが、さて。

大牟田のおじさんは、数回目の脳梗塞で入院中。病院を訪ねると、一人ベッドで眠っていた。
起こすのも悪いので院内を回っていると、おばさん(おじさんの奥さん)にあった。毎日病院に来ているのだという。だが、脳の働きが極度に落ち、話しかけると、時々ニコッとする程度だという。はあ、ずっと共産党の活動家だったのに、やっぱり病には叶わぬか。
ベッドのそばに行き、おばさんが

「ほら、あんたに会いに来てくれなはったよ」

とおじさんの耳に語りかけるが、反応はない。

「もういいよ。寝かしておいて」

と挨拶して別れた。おばさんは涙ぐんで喜んでくれた。


田川の叔父も、

「惚けが始まって」

と、その娘である従姉妹に聞き、この際顔を見ておこうと尋ねた。なにしろ、私にとっては心の父である。元気なうちに顔を見ておきたい。叔父は、2ヶ月近く前に奥さんを亡くしたばかりである。

が、だ。
87歳になるというのに、叔父は極めて元気だった。朝は起き抜けに股割をし、庭を畑にして大根やネギなどを育て、晩酌は欠かさない。
確かに、話に繰り返しが増えた。10分前に話したことが記憶に残っていない。
だからであろう。叔父はメモ魔になっていた。直近に関する自分の記憶力が曖昧になったことを自覚し、忘れてはいけないことは必ずメモをする。壁のカレンダーには、忘れてはいけないことが細かく書き込んである。
元々知的だった叔父は、惚けに対して知的に対処している。まるで「博士の愛した数式」(小川洋子著)の世界である。

近くに住む従姉妹2人(共に女性)が夕食の支度をしているらしい。私が行った日も、2人が来て食事の支度をしてくれた。この2人には、松井ニットのマフラーを土産にした。
で、叔父、弟と楽しく酒を楽しんだ夜だった。

しかし、話とはするものである。聞かなければ知らなかったことが突然姿を現した。

叔父によると、私の母方の祖母の家は、豊臣秀吉の家臣で賤ヶ岳の七本槍で知られる福島正則の末裔なのだという。正則は徳川家康につぶされるが、惜しんだ黒田長政が家臣に組み入れた。それで九州の地に居着いたのだという。
そればかりか、母方の祖父の家は、平家の落人なのだそうだ。平家といっても高級官僚ではなく、地方に赴いて領地の農耕を司る下級官吏だったらしい。

「へえ、俺って福島正則と平家の落人の血が入ってるの!」

この日叔父を訪ねなければ、死ぬまで知らなかった事実である。そうか、そんな高貴(?)な血が我が体内を流れているのか。なるほど、鏡で我が顔を見ると、どことなくノーブルだもんなあ。

「ばってん」

と弟が言った。

「だから、ちゅうて、よか思いはなーんもしとらんもん。だけん、誰が先祖だっちゆうたって関係なかばい」

ん? そりゃあそうだ。そうか、弟の方が冷徹であったか。


という旅であった。

という次第で、母の問題はとりあえず棚上げする。一安心である。
が、母は93歳(惚けた本人は96歳と主張する。そういえば、「あんた、いくつになったと?」と何度聞かれたか。「66たい」と何度答えたか)。容体が急速に進むリスクは大きい。いろいろな面で準備だけはしておかねばならぬ、と自分に言い聞かせる私であった。