06.02
2015年6月2日 訂正
粗忽者はしょっちゅう訂正を出す。
訂正など出さぬにこしたことはないのだが、文章を書いていると、どうしても訂正につながる文章を書いてしまう。
確認不足、思い込み、不注意、杜撰。理由は様々だ。文章など書かねば訂正などありえないのだが、文章を書き続けるとどうしても間違う。
To err is human, to forgive divine.
ま、神ならぬ身の私だから、これからも訂正は出し続けるであろう。
と開き直って、さて、本日の訂正である。
昨日の日誌で、
「(福島)正則は徳川家康につぶされるが」
とあるのは、
「正則は徳川秀忠につぶされるが」
の間違いでした。お詫びして訂正します。
資料の読み方がいい加減なのである。徳川につぶされたとなると、「家康」と信じて疑わない。この軽薄さは私の持ち味ともいえる。
今朝、開きっぱなしにしていたウィキペディアの「福島正則」を読んでいて気がついた。気がついたときはもう遅い。それが訂正の実相だ。
で、間違いを見つけたついでに、もっと先まで読んでみた。
「ははあ、我が先祖はそのようなものであったか」
と改めて感じ入った。
・武勇に優れた
・武勇に長けるが智謀に乏しい猪武者
・武断派の印象が強いが、慶長6年(1601年)の検地で知行高49万8,000石だったのを元和5年(1619年)に51万5,000石まで増加させており、領主として行政面でも結果を残している
・宗教に対しては寛容な政策を採っていた
・大酒飲みで酒癖が悪かった
・あるとき細川忠興に「なぜ武勇もなく得体の知れない茶人の千利休のことを慕っている」と尋ね、その後忠興に誘われ利休の茶会に参加した。茶会が終わると正則は「わしは今までいかなる強敵に向かっても怯んだことは無かったが、利休と立ち向かっているとどうも臆したように覚えた」とすっかり利休に感服した
・かなりの恐妻家であったらしく、ある時は女性問題で嫉妬に狂った夫人(昌泉院)に薙刀で斬りつけられて、戦場では臆したことはないと自負した彼もこれには逃げ出した
(以上、いずれもウィキペディアより)
我がご先祖様は、いかなる男であったのだろう? 私に似ているところもあれば、まったく違うところもあるし……。
ま、血筋とはその程度のものかも知れないが。
というわけで、本日はお詫びと訂正のついでに、ご先祖様の一面をご紹介するために日誌を書いた次第である。
では、また。