2015
06.03

2015年6月3日 彼我の差

らかす日誌

今朝の日本経済新聞をながめていて、思わず膝を打った。36面、つまり一番後ろのページに掲載された

「世界の映画と日本映画 カンヌ2015」

というコラムである。歯に衣着せぬ切れ味の鋭さに、心の内で快哉を叫んだ。

御存知のように、我が家にはディスク化された映画がたくさんある。最近はもう数えなくなったから何本あるかは神のみぞ知るのだが、4、5000本はあるのではないか。カンヌ受賞作に限っても160本を超す。だから、映画の記事には、ついつい目が引き寄せられる。

コラムは、今年のカンヌ国際映画祭を現地紙などがどう報じたかをレポートしたものである。それによると、

ルモンド紙は
「耐え難いコンペ」
「(19本のコンペ作品のうち5本を占めた仏作品は)大部分がカンヌの水準に達していない」
と書いた。

リベラシオン紙は
「(仏作品がパルムドール、男優賞、女優賞を受賞したのは)フランス人同士の社会福祉政策」
と書いた。

英ガーディアン紙は
「(パルムドールを受賞したオディアール監督の『ディーパン』は)オディアールの最高作ではない」
と書いた。

また、仏以外の作品についても

リベラシオン紙は
「一新させる意志、新人を増やす意志は理解できたが、選ばれた作品の大部分を前にして我々は意気消沈した」
と書いた。

ルモンド紙は
「(常連のガス・ヴァン・サント、マッテオ・ガローネは)不調」
と書いた。

リベラシオン紙は、監督賞を得た台湾の「黒衣の刺客」を
「我らのパルム」
と書いた。

いかがであろう。このコラムから拾った欧州の新聞の舌鋒である。鋭い。

さて、ここで翻ろう。
我々の日本のメディアは、映画について何を報じているのか?

アカデミーでもカンヌでも、世界的な映画祭は日本のメディアも確かに報じはする。だが、主眼は日本作品の行方だ。
今回目だったのはこれだ。

「黒沢清監督に最優秀監督賞 カンヌ『ある視点』部門」

とにかく、日本人監督の作品、日本人俳優が出た作品、日本製のアニメが受賞するかどうかが、日本のメディアの最大の関心事である。

日本人が受賞したとなると大騒ぎし、受賞しなければ盛り下がる。
出品作の出来不出来、選ばれた作品が賞に相応しいのかどうか、審査員は目利きなのかどうか、など欧州のメディアが競って(と、日経のコラムを読めば受け取れる)言及する本質的な問題にはまったく目を向けない。映画を1本も見たことがない記者だって書ける水準の記事、いやレポートしか掲載されない。

では、吾こそは映画評論家なりと偉そうにしている連中はどうか。
褒める一方なのだ。どんな映画が出てきても、褒める。

「褒めなきゃねえ、評論家ってのはおまんまの食い上げなんですわ。そやから、どんなものでもとりあえず褒める。褒めてメーカーから金をもらうのが評論家ちゅうヤツですわ」

桝谷さんがオーディオ評論家を十把一絡げにしてバカにしていたことを思い出す。そう、対象は映画に変わっても、所詮は評論家。褒めて褒めて、褒め殺すのが日本の映画評論家である。きっと、映画会社に映画のただ券を沢山もらっているのだろう。
連中の書いたものに何度だまされたか。

しかし、こうしてみると、欧州のメディアの大人ぶりと、日本のメディアのガキぶりがよくわかる。それを支えているのは読者だ。

欧州の読者は褒め殺す原稿をバカにするのだろう。だから、そんな記者も評論家も仕事をなくす。残った連中は必死に己の鑑識眼を磨く。いい循環だ。

では、日本の読者はなぜ褒め殺す原稿を生きながらえさせているのか? 私のように、読んだおかげでとんでもない被害を被っている人も多かろうに。
ひょっとしたら、日本の読者は、我が国の映画評論を頭から信じていないのではないか?

「ああ、こんなバカなことを書いているが、そうでもしないとこの人(記者、評論家)は生活ができないんだよねえ。世の中に恥を振りまかなきゃ生きていけないなんて可愛そう」

と同情しているのではないか?
であれば、日本の読者の方が遥かに大人ということになるが……。

あ、ふと思い出したけど、最近執筆は止まっているけど、私の

シネマらかす

は面白いよ!

我が国の評論活動の貧しさを嘆き、ついでに「らかす」のPRをしてしまった本日でありました。