2016
01.11

2016年1月11日 成人の日

らかす日誌

は、私の鬼門である。
日本各地でバカ騒ぎが繰り広げられる。ここでいうバカ騒ぎとは、一時流行った新成人による乱暴狼藉のことではない。成人式という儀式そのもののことである。

人間、19歳と20歳で、何が違う? 19歳の最後の日に布団に入り、翌朝目覚めて20歳になっていると、何が変わる?
私は、何も変わらなかった。朝日を顔に受けながら(と書いたが、当日、晴れていたのか雨が降っていたのかトンと記憶にない。まあ、劇的にするための表現とご理解いただきたい)、ああ、また1日が始まったな、と思っただけである。

私は、成人式に出るはずの年、つまり20歳になって迎えた成人の日に、ジーパンにセーター、それに米軍払い下げではないかと思われるミリタリールックのジャケット姿で成人式会場の前にいた。頭はロングヘア。まあ、いま顧みればむさ苦しいとしかいいようがない姿である。で、その格好で会場に入ったかというと、足は一歩も踏み込まなかった。
手にはガリ版刷りのチラシを抱えていた。

「成人式、って何?」

「大人になるって何?」

「晴れ着姿で下らぬ式に出るのが大人になった印?」

詳しい中身は忘れたが、そんなことを書き連ねたチラシを、成人式会場に入ろうとする新成人、つまり私と同い年の連中に手渡していた。

まあ、個人的には

成人式粉砕闘争

の日であった。
だが、客観的には、それが私の成人式ではあった。

大人になるとは何か? 既存のあらゆる価値観を疑う自分を確立することではないか? それなのに、いつ、誰が、どのような動機で始めたか分からぬ自治体主催の成人式に出ることに何ほどの意味があるのか? それは、若い私が嫌悪して止まぬ、いまの社会に何の疑いも持たず、おりこうさんの一員になってしまうことではないのか?
おお、いやだ、いやだ。自分を取り巻く社会を疑いもせず、その一員になりきってひたすら上を目指す人生に、何の意味がある? 常識を、道徳を、権威を疑おうじゃないか。否定しようじゃないか。疑って、疑って、否定して、否定して、その中から新しい常識と道徳と権威を創り出そうではないか。それが、大人になるということではないのか?

あの若気の至りから46年。
己を顧みれば、世の塵芥にまみれてしまった時間ではあった。あれほど壊すこと、創ることにこだわりながら、その後の46年はひたすら普通の人になる時間、堕落する時間であったのかも知れないと思う。だから、いまの私は、新しい成人に伝えたいことなど何もない。それぞれに生きていけよ、というしかない。

だが、あの時の気持ちは忘れたくない、という気が、どこかに残ってもいる。
その証拠に、NHKのニュースで、成人式に出た若い連中が、

「これからは社会の一員としての責任を自覚して」

と言っているのを聞いたり、招かれた脳科学者といわれる著名人が

「おめでとう」

と舞台から呼びかけているのを聞くと、

「ああ、こいつら、うわべだけの人生を送ってンなあ」

と冷ややかに見てしまうのである。彼らは、当たり障りのない言葉とは、ただ時間を埋めるだけで、誰の心にも響かず、何の力にもならないことを理解しているのだろうか? それとも、そのように己を殺さねば生きづらいのがいまの世なのだろうか。


今日、久しぶりに石鹸で身体を洗った。
入浴時、石鹸を使わないのは、フォークの神様岡林信康が

「石鹸で洗う必要なんかない。お風呂に入れば汚れは流れ落ちるもんです。私は石鹸を使いません」

と何かで書いているのを読んで

「そうなのか」

と実践し始めて、もう10年? 15年?

風呂には、ほぼ毎日入る。入らないのは飲み会の日だけである。
で、入っても、ほとんど石鹸は使わない。浴槽で十分に身体、特に腰を温め、汗を十分にかいてシャンプーするだけである。石鹸で身体を洗うのは年に数回だけ。今年は今日が初めてだから、次は4月か、5月か。

「えーっ、不潔!」

と嫌悪感をあらわにされる方もいらっしゃるかも知れないが、これが意外に大丈夫なのだ。
不潔になれば、普通臭う。そばに来た人が不快臭の為に離れていく。
ところが、石鹸を使わないようになってからも、そのような理由で私から離れた人はいない。
私に対しては遠慮会釈なく文句をいう我が妻殿も、娘たちも、一度も

「お父さん、臭い! 身体をちゃんと洗ってよ」

といったことがない。
であるから、私と閨をともにし、肌をこすり合わせた女性がもしいたとしても、

「大道さん、あなた、臭う。お風呂、ちゃんと入ってる? ちょっと、こっち来ないで! 臭いんだから」

とベッドから逃げ出すことはなかったはずである。

で、何で今日は石鹸で洗ったのか、だって?

いや、ふと思っただけです。

「前回石鹸で洗って何ヶ月たったかなあ」

って。うん、ほんの思いつき
まあ、人生って、考えてみれば様々な思いつきの積み重ねでもあるわけで、今日の私は、また人生に1ページを塗り重ねたのでありました。