2016
02.25

2016年2月25日 謎

らかす日誌

「ねえ、ジャズピアノの入門編をCDにしてよ」

妻女殿からそのようなご下命があったのは、今朝。朝食を終え、1日の始まりとなる身だしなみを整えようかという時刻であった。

「ジャズピアノ?」

私があっけにとられたのには、いくつかの説明が必要だろう。

まず。
我が家にある音楽は、すべてCDから抜き出してflacというファイル形式で、パソコン、NASに納めてある。flacとは面白いファイル形式で、CDに入っているデジタルデータを圧縮したものなのに、「可逆圧縮」といって、いつでも元のCDのデータに戻せる。だから、パソコン、NASに入っている音楽をCDにするのは朝飯前なのである。

が、それだけではあっけにとられた説明にはなっていない。
あっけにとられたのは、我が妻女殿は、これまで一度としてジャズに関心をお持ちになったことがないからなのだ。
最近でこそあまり聞くことはなくなったが、私にはジャズにたっぷりと浸かった時期があった。この上なく愛したThe Beatlesが解散し、

「えっ、これから何を聞けばいいんだ?」

と途方に暮れたとき、目を向けたのがジャズだった。Miles Davisに始まり、John Coltrane、Sonny Rollins、Ron Carter、Keith Jarrett、Charlie Parker、Charlie Mingusなど、雑誌を読みつつ、関心を持ったジャズマンのレコードを買いあさって聞いた。枚数は200枚を優に超えていたと思う。
夜遅く、というか朝早く、というか、仕事を終えて自宅アパートに戻り、遅い夕食を取りながら聞くのがMiles Davisのアルバム「Kine of Blue」という時期も長かった。

それなのに、である。妻女殿がジャズに関心を示された兆候は、これまで一度もなかった。私が見たのは

「このレコード、まだ終わらないの?」

という苦虫を噛みつぶしたような表情だけであった。それも齢を重ねれば重ねるほど、噛みつぶし方がひどくなった。
それが、突然の

「ねえ、ジャズピアノの入門編をCDにしてよ」

である。我が妻女殿をご存じの方なら、この異変に呆然となるのは当然なのである。

しばらく考えて、

「ははあ」

と思い当たった。そういえば最近、妻女殿がたっぷりとお浸かりになった映画がある。

セッション

一部からは

「意味のないいじめを映像化した作品」

との酷評もあったが、昨年、アカデミー賞の助演男優賞、音響賞(調整)、編集賞を得た映画である。ジャズドラマーを目指す若者と、その若者をしごきにしごく指導者の話らしい。というのは、私はまだ見てないからであるが、確か先週WOWOWが放映し、録画した。それをごらんになって、いたくお気に召したようなのである。

「まだしまわないでね。もういちど見るから」

「これ、コピーして子供たちのところに送って」

いずれも、妻女殿のここ数日における発言である。

「ほほう、あの映画でジャズにお目覚めになったか」

だが、だ。入門編? だって、うちにあるジャズは、みんなプロの演奏だぞ。それにジャズにはバイエルなんてない。入門編とか中級編とかあるのか?

勝手に、親しみやすいジャズピアノならいいのだろう、と解釈た。反応を知ろうと、メインのオーディオシステムで朝から、まずBill Evansをかけた。

「これ、入門編じゃない」

とおっしゃる。となると、Thelonious Monkなどはご披露しづらいし、Keith Jarrettも範疇外かも知れぬ。色々考えてCarmen Cavallaroを選んだ。これなら、映画「愛情物語」で御存知のはずである。

何とか合格点をいただけたようなので、次はEddy Duchin Story、つまり「愛情物語」のサウンドトラックに進み、山中千尋を経て山本剛に至った。これはたいそうお気に召したようで、我が家では午前中いっぱい、山本剛のピアノが響き渡っていた。

さらにKenny Burrell、Herbie Hancock、Erroll Garnerなどを加えて朝から作業に追われ、出来上がったCDは20枚ほど。それほど難しい作業ではないが、時間を取られる作業ではある。新しい分野の音楽に妻女殿が興味を持たれるたびにこの作業をするのか?
そこで、言ってみた。

「あのさ、ネットワークレシーバーを買ってくれないか?」

ネットワークレシーバーとは、アンプとネットワークプレーヤーが一体化したものである。安いものは3万円を少し越すぐらいの価格で買える。これにスピーカーをつなげば、我が家のNASに蓄えられた音楽をすべて聴くことができる。

「そうすれば、金と時間をかけてCDをつくる必要もなくなるし、音もいいはずだし」

これ、しごくまっとうな提案であるはずだ。
だが、妻女殿は一言で切って捨てられた。

「いらない」

何でも、音楽を聴くときは1枚ずつCDを手にとって再生装置に装填するのがよいのだそうだ。
だって、出て来る音楽は一緒だろ? しかも音はいいはずだし、CDを身のまわりに置く必要はないし、いいことばかりじゃないの?

「いいの。いらないったらいらない」

結婚してもう40数年。

「この女、どんな人間なんだ?」

年を経るごとに謎は深まるばかりである。