06.17
2016年6月17日 イチロー
通産省(現在の経済産業省)で広報課長をしていた知人がいた。彼が、ある日目を輝かせながら言った。
「1つの道を究めるって、すごいことなんですねえ」
通産省と言えば、霞ヶ関で大蔵省(当時)と覇を競う勢いで、それこそ天下の俊秀がワラワラと集まっていた中央官庁である。そのキャリアであり、広報課長の座にある彼も、もちろんワラワラ集団を構成する一員だ。
どうしたの? と訪ねる私に、かれは説明を試みた。
「柔道の山下をインタビューしたんですよ」
広報課は省内誌の編集もする。その1つのコーナーに、各界の著名人をインタビューする欄があった。その相手に、ロス五輪で金メダルに輝いた山下泰裕さんを選んだのだそうだ。
「普通、柔道家っていったら、朝から晩まで柔道ばかりやっていて本は読まないし、考えることも少ない、勉強なんかしたことないに違いない、って思うじゃないですか。だから、柔道が強いだけで、頭の方はいまひとつ、って。山下さんもひょっとしたら勉強なんかしなかったのかも知れないけど、でも、1つの道を究め、頂点に立った彼の言葉は、我々じゃとても及びもしない深さ、広さがあるんです。我々がとても行けないところまで行っちゃっていて、そこから言葉が降りてくる。いやあ、圧倒されました。インタビューしながら教えられることばかりでした」
中央官庁のキャリア組とは、自信が人間の皮を被って歩いているような存在である。自分より優れた人間がこの世にいるとは、多分考えたこともない人種である。その一員であるに違いない彼が、完全に脱帽していた。
ここまで脱帽されると、
「へーっ、俺と話しているより学ぶことが多かったのかね?」
などと突っ込む気にもなれない私であった。
という昔話を突然持ち出したのはほかでもない。イチローである。とうとう4257本目の安打を放ち、世界のプロ野球界のトップに立った。朝日新聞で記事でイチローの発言を追いながら、
「ふむ、イチローも山下泰裕と同じく、極めて、突き抜けて、俺たちとは違った世界に行っちゃった人だったんだなあ」
と、今度は私が脱帽した。私には及びもつかぬ境地まで達した人でなければ絶対に口にできない言葉がいくつも並んでいた。イチロー、凄い、凄すぎる!
イチローは己に厳しく、人が見ていないところで努力に努力を重ねた選手だと言われる。だから記者は聞いたのだろう、人に苦労は見せたくない? って。
そしてイチローが答える。
「見せたくない。見せたいやつなんて、誰かいる?」
身震いするほどの返答ではないか。
だって、人は自分の苦労する姿、あるいは見た人が「苦労してるなあ」と思ってくれる姿を、人に見せたがるものだ、というのが私の理解である。特に会社という組織には、
「私、がんばってます!」
という姿を、上司に見ていただけるチャンスを探し求める輩が溢れている。その現実を、イチローは軽々と笑い飛ばしてくれた。
そうだよなあ。努力する姿を人に見られるなんて格好悪いんだよな、ホントは。
そして、前人未踏の安打数。
「偉大な数字を残した人がたくさんいますが、その人が偉大だとは限らない。むしろ反対の方が多い。人格者だったら出来ないともいえるけど、特別な人たちはいる。だから、そういった人たちに、この記録を抜いてほしい」
読んだ瞬間、唸った。何を、どう学んだら、このような底知れぬ深みを持った言葉を自分の中から紡ぎ出せるのだろう。
1つには、ピート・ローズへの反論である。ローズは通算安打4256安打の大リーグ記録を持つが、
「次は彼の高校時代の安打まで数え始めるんじゃないか」
「大リーグと日本を同等に見ている人はいないと思う」
と、イチローと自分が比較されるのを嫌った発言を繰り返したケツの穴の小さな男である。それだけではなく、ローズは監督をしていた1989年、野球賭博に関わって球界を永久追放された男でもある。
イチローの本音は
「ピートじいさん、勝手にほざいてろ」
であったかも知れぬ。それを、このようにソフトで、ウィット、ユーモアさえ感じさせる言い回しで柳に風と受け流す。この知性には脱帽するしかない。
そして、イチローはあくまでしなやかである。いずれ自分の記録を抜く選手が登場してほしい、と堂々と言って見せた。それも、ローズのような人格に問題がある選手ではなく、特別な選手に、というのだ。
これは、決めのコメントだろう。
「日米合わせた記録とはいえ、生きてる間に(記録を抜かれるのを)見られて、ローズがうらやましい。僕も見てみたい」
自分が達成した偉大な記録を、これほど軽やかに相対化してみせる知性。自分の記録が抜かれるのを見たいというゆとり、自信。
イチローは、我々のような並の人間ではないことを思い知った。
2016年6月16日は、イチローと同じ日本人に生まれたことを誇り、心から喜びたい日である。
おめでとう! ありがとう! イチロー選手。