08.09
2017年8月9日 忘れ物
前回の日誌で、桐生祇園祭の宴を書いた。
書いて2日たって、大事なことを忘れていたことに気がついた。
「俺、公式カメラマンだったよな!」
そうなのである。私は祭の3日間、重いNIKON D750を抱えて町中をうろつき回っていたのだ。こんなにも知り合いが増えていたのかと驚くほどたくさんの人と
「どうも」
「暑いね」
「大変ですね」
「もう、死にそう!」
と挨拶を交わしながら、ひたすらシャッターを押し続けたのである。つまり、私のもとには、1200枚に及ぶ記録映像がある。
「だったら、ここにアップしたら?」
今日になって、そんな簡単なことに気がついた。気がついたからには、皆様にも桐生祇園祭の賑わいを見ていただくのが筋ではないか?
というわけで、多くの方々はご覧になったことはないであろう桐生祇園祭を、我がホームページの上で、ほんの少しばかり再現することにした。
桐生祇園祭を支えるのは、桐生市本町一丁目から六丁目までと横山町、計7つの町内会である。そして、それぞれの町内で祭の実行部隊になるのが若衆と呼ばれるグループ。まあ、最近は高齢化で、決して若くない人も若衆に入っているが、それは置くとして、祭は各町の若衆がほかの6つの町内会に挨拶回りすることから始まります。
写真は、二丁目の若衆が三丁目に挨拶に行ってところです。
各町の挨拶回りが一段落したあと、三丁目は「翁鉾(おきなぼこ)」を蔵から出しました。
作られたのは文久2年(1862年)。ペリー来航の圧力に屈して開国に転じた徳川幕府でしたが、おかげで桐生の景気が落ち込みます。絹が重要な輸出品となり、大量の絹が海外に流れたのです。その方がもうけが大きかったためですが、おかげで絹織物産地である桐生には絹が回ってこず、機屋からは機の動く音が消えてしまいました。職人は仕事を失い、お救い米まで出る始末。そのさなかに、三丁目は膨大な金をかけてこの鉾を作りました。
私、桐生の苦境に負けず、逆境を笑い飛ばす心意気が大好きです。
翁鉾は全高7.5m。上に翁面をかぶった源頼朝の像が立ちます。なぜ頼朝なのかは、いまだに分からないままです。
本町通に姿を現した翁鉾の前で、三丁目の役員、若衆が記念写真を撮りました。ほら、鉾の上に翁蔵がすっくと立っているでしょう。
鉾にはお囃子が乗って演奏を繰り広げます。子どもの姿も見えます。
祭は夜になって盛り上がります。
鉾はみんなで曳きます。浴衣姿の可愛らしい女の子も、お父さん、お母さんも曳きます。
今年は群馬大学の学生、院生も応援に駆けつけてくれました。
とりあえず、本日は祭の1日目の写真をご覧いただきました。
ねえ、ちゃんと仕事をしていたでしょう?
ねえ、お断りしたとおり、腕前はたいしたことないでしょう?
次回は2日目の様子をアップします。