04.11
2018年4月11日 前々から
そう、前々から一度見てみたいことがある。いまだに一度も見ていないところを見ると、見ないまま棺桶に入るのかも知れないと思うと、やや寂しい。
「何これ、不味っ!」
そんなシーンをテレビで見てみたいのである。
どういう訳か、この頃食べ物を扱う番組が多い。テレビはほとんど見ない私であるが、その私の目にもとまるのだから、全部合わせたらどれほどの「食い物番組」が制作されているのやら。
日常的に私の目にとまるのは、昼時のNHKである。番組スタッフと売れない芸人があちこちに出没し、ご当地の名物といわれるものを振る舞われて
「美味い!」
などと叫ぶ。
土曜日夕刻のテレビ朝日では、主に東京の有名料理店の料理人が、これまた売れない芸人を伴って食材の産地を訪ねる。番組の終わりでは料理人が腕を振るい、取れたての食材でご自慢の逸品を仕上げて素材生産者の前に並べる。
かと思うと、TBSでは夕方のニュース番組であるにもかかわらず、
「ただいま巷では、このような食べ物に列が出来ておりまする」
と人気の食べ物を取り上げる。
ん? 見ないという割には良くテレビを見ている?
いわれてみればそうである。しかしどれもこれも、会話がほとんどない老々家庭の食卓に着いた時に、仕方なしにテレビをつけるとやっているものばかりである。見てるというより、つけているといったほうが当たっている。
ま、それはそれとして。
この中で、出てくる食べ物がまともに見えるのはテレビ朝日の番組程度である。あとは、見るたびに
「そんなものが美味いかよ!?」
と叫びたくなるものばかりだ。
それを、画面の中にいるキャスターや売れない芸人は
「美味い!」
「何も言わずにおこうと思ったのですが、やっぱり、これ、美味い!」
などと称揚する。中には、私も食べた記憶があるものが出てきたりするから
「台詞はどうせ決まってるんだろう。でも、頼むから、せめて表情だけでも『不味い!』を表現してくれないか。正確な情報を視聴者に伝える努力をしてみてくれないか」
と思うのだが、表情までがさも美味そうに見える。困ったものである。
今日のお昼のNHKは、横浜中華街から生中継していた。この町、何度足を向けても、美味いものに当たったことがない。
「ああ、大道さん、あそこでは表通りにある大きな店はみな不味いのです。裏通りにある小さな店の中には、『これは美味い』というものがあります。それを探し当てねばなりません」
とアドバイスする友もあり、捜してみたが見つからない。本当にそんな店があるのかな? という町からの中継にもかかわらず、しかも私だけでなくその友までが「不味い」と切って捨てた表通りの大きな店からの中継にもかかわらず、ご登場された方々は北京ダックなどを咀嚼しながら相変わらず
「美味い」
とおっしゃっていた。
テレビに出るような連中というのは究極の味音痴ばかりなのか。
本当に美味しいものにありついたことがないかわいそうな人々なのか。
出演料をいただく以上、制作者の指示通りに、何を口に入れても
「美味い」
と叫び、美味そうな表情を作るのが仕事である、とわきまえたプロ中のプロばかりなのか。
「横浜中華街に行くより、川崎の『松の樹』の中華料理の方がはるかに美味いぜ」
とテレビに向かって怒鳴りつけたくなった私は、考えるのである。
「正しい情報を流さないテレビとは何なのだろう?」
と。
だって、テレビ視聴者の多くは、そんな番組を見ながら
「そうか、あの店に行けば美味いものが食べられるのだ」
と思う。その店に出かけて
「これがテレビでやってた美味いものなのだ」
と学習する。
しかし、そのテレビでやってた「美味いもの」が、本当はちっとも美味いものではないとしたら?
多くの食べ物番組は、日本の食生活の水準を下げることに血道を上げているように見えるのである。
それでいいのか、テレビ!?
プロデューサーと呼ばれる方々よ。食べ物番組を作ろうと思い立ったら、まず世界中の美味いものを食べ尽くされよ。いま、世界でいちばん美味いものが集まっている町は東京だといわれるから、コストはそれほどかかるまい。だから東京中を食べ尽くして、自分の中で絶対的な味の基準を構築されよ。その基準に照らして、
「この味なら取り上げる価値がある」
と判断できる食べ物だけを番組化されよ。
そんな準備もせずに番組を作るとは、究極の無責任である、とは思われませぬか? それとも、あなたの職業倫理はその程度にまで緩んでる?
でも、聞いてみたいのだ。
テレビで
「えーっ、これ、不味くね?」
と言う台詞を。
それが無理なら、
「美味い」
と言いながら、これ以上口に入れるのはいやだという歪んだ表情を。
ん? そんなことしていたら、取材を受けてくれる店がなくなって番組がつくれなくなるって?
それでいいではないか。そうなって日本の食文化は初めて守られるのである。