01.19
2019年1月19日 総支配人 その8
2006年度が始まった。私が支配人として買い取りを決めた60前後の朝日新聞主催公演で、私の方針が有効かどうかが試される1年である。そして、私の根性を試される年でもあった。
根性——それは、こんな話である。
「大道さん、これ、買いましょうよ」
私の後でホールのメンバーに加わってくれた仲間がいた。30代の(当時は)W君である。
彼は幼いときからピアノに熱中し、プロのピアニストを目指してロンドンの王立音楽学院(Royal Academy of Music)に留学した俊才である。在学中、様々なコンクールに出場したが
「入賞はするんですよ。でも、1位にはなれない。それでピアノ道を諦めまして」
日本に戻り、確かヤマハを経て朝日新聞に職を求めた。
「でも、ロンドンまで行って本当によかった。日本の音楽学校と全く教え方が違うんですよ」
という彼の話は、音楽で身を立てようとお考えの方には是非伝えておきたい。
「授業でね、教授が突然聞くんです。『プロのピアニストと素人のピアニストの違いは何か』っていうんですよ。日本だったら、ほとんどのの教師は、技術だっていいます。僕も最初はそうだと思った。コンテストで優勝出来ないのは、まだまだ技術が足りないからだ、もっと練習しなければ、ってね。でも、その教師は全く違ったことをいうんです。『君たちとプロのピアニストの腕前はどっこいどっこいだ。ひょっとしたら君たちよりも技術では劣っているプロのピアニストだっているかもしれない。この世界はそんなものだ』っていうんです。では、何が違うのか。『聴衆を惹きつける魅力だ。それはひょっとしたら天性のものなのかも知れないが、それだけもないはずだ。では、どうしたら魅力的な演奏ができるか。それを勉強しましょう』。ビックリしました。日本じゃ、誰もそんなこといいませんからね」
英語生活が長く、
「僕、日本語がうまくないんですよ」
と普通の日本語で話しかけてくるW君に、
「だって、訛りもないし、綺麗な日本語だよ」
というと、
「話す程度なら大丈夫なんです。でもね、日本に戻ったころでした。東京でタクシーに乗ったんです。運転手さんに『アッセイショウに行ってください』っていうと、キョトンとした顔をするんです。え、声が小さかったかなと思って、もう一度『アッセイショウ』って大きな声で言ったら、聞いたことがないから、紙に書いてくれという。書いて渡したんですよ。そしたら、『何だ、厚生省か』ですって。あれ、僕はずっとアッセイショウだと思い込んでたんです。その程度の日本語なんですよ、僕のは」
いや、W君の紹介が長くなった。そのW君が持ってきた公演は、クリスチャン・ツィメルマンというピアニストだった。当時の私は聞いたこともない名前である。
「ふーん、そんなにいいピアニストなの? 俺はポリーニが最高のピアニストだと思ってるんだけど、この人はポリーニに並ぶのかね?」
「並びます。いまいる世界最高のピアニストの一人、超一流といわれる数少ないピアニストの一人です」
ピアニストになろうと一度は思ったW君の話である。間違いはなかろう。
「で、いくらだって?」
「ええ、1200万円です」
1200万円! たった1回の公演で!!
確かに、価格からすると超の上に超がつきそうなべらぼうさである。
「き、君さ、1200万円って、浜離宮ホールの席数、552で割ってみな。2万2000円だぜ。それに経費を入れると2万5000円のチケットになる。そんなもの、売れるのか?」
「そうですね。2万5000円は少し高いかなあ」
世界の超一流を年間、3〜5人は浜離宮ホーールのステージに立たせる、と施政方針演説をしたのは私である。W君は素直に私の話を受け入れ、
「そうですよ。そうでなくちゃホールの名前は上がりません」
と大いに賛成してくれた。賛成するだけでなく、早くも世界の超一流を持ってこようというのである。
でも、超一流ってそんなに高いのか……。そういえば、改革方針を考えるとき、出演料の相場なんて調べなかったなあ……。1200万円。私は天につばするような改革方針を書いてしまったのか?
私はのっけから
「口先だけの改革方針なら誰にでもできる。実行する根性はあるんだろうな!」
と肝試しをされることになってしまったのである。
考えた。足りない頭、ほとんどない音楽ビジネスに関する知識を総動員して考えた。
どう考えても、浜離宮ホールを改革するには超一流の演奏家を招く必要がある。だが、超一流だと1公演1000万円を超える。どうする?
「よし、やってみっようじゃないか。ただ、赤字公演にはしたくない。ツィメルマンはサントリーホールでもやるそうだね。サントリーに比べれば、浜離宮の方がはるかに音はいいし、全員がステージ近くで聞くことが出来る。そのメリットをチケット代に繁栄させると、サントリーよりいくら高くできるのか。それを計算し、それでも赤字になるのなら、まず講演料を値切ってくれ。大幅に値切りたい。さらに、それでも赤字になりそうならスポンサーを探そう。何としてでも実現させたい。ある程度の見通しを立てようよ」
前任のO君がびびったプレトニョフは、450万円の言い値を330万円に値切り、スポンサーをつけて実現した。同じ手法を使おうというのである。
だが、450万円対1200万円。
私は、正直びびっていた。