2019
01.21

2019年1月21日 総支配人 その9

らかす日誌

やってはみるものである。

マスメディアである朝日新聞に記事を掲載すること、552席しかない小さなホールでのコンサートであることなど、様々な話をする中で、ツィメルマンに日本公演を仕切る音楽事務所は値引きに応じてくれた。
いや、話をしたのは私ではない。W君である。みごとなディレクターぶりといえる。私がしゃしゃり出ていたら、これほどうまく話はまとまらなかったろう。人間、私のように優れると、自分の能力の限界もわきまえるのである。

サントリーホールのチケットは、1万5000円(だったと思う)と分かった。では、浜離宮の付加価値をいくらにするか。W 君は

「少なくとも3000円はいけます。ツィメルマンが聞きたいという人は、そのくらいの価格差ならサントリーよりもこちらに来ます。私が客だったら、必ずそうしますから」

という。ほう、そのようなものか。私なら入場料が3000円でも客にはならないけど。
これもW君の見識にすがるしかない。浜離宮ホールは18000円(これも、記憶あやふや)とする。

18000×552=993万3600円

これをベースに計算した。コンサートにかかる経費を入れると、まだ追いつかない。

やってはみるものである。

コンサート・スポンサーがついた。この、ツィメルマンのコンサートだけをスポンサーする。といっても、スポンサー企業の広告を出せるのはチラシ、当日のホールのロビー程度である。それほど高額な広告料はいただけない。

それを含めて再計算した。552人の客が入れば何とかトントンになる。

「やったー! 赤字にせずに世界の超一流を呼べるぞ!」

私の経営方針具体化の、目に見える第1号である。勇み立たないはずはない。何だか天下を取ったような気分である。俺、ひょっとしたら経営の才覚がある?

浜離宮ホールでのツィメルマン独演会のチケットを売り出した。売れ行きは毎日報告が入る。飛ぶように、とまではいわないが、順調にさばけている。

「ほう、やっぱりツィメルマンって超一流なんだ」

クラシック音痴の私には、その程度の感想しか思い浮かばない。が、多くが超一流と認める演奏家が浜離宮の舞台に立つのである。ツィメルマンのファンが当日を待ち望むのと同じように、いや、ファンよりずっと熱烈に、私は公演日を待ち受けた。

「あれ、どうしたんだろう?」

毎日のチケット販売数を追っていた私は、何となくいやな数字を見てしまった。さばけていないのである、ツィメルマンのチケットが。
350枚までは順調に売れた。あれから1週間はたつというのに、上積み分はホンの数枚しかない。

「えっ、200枚も売れ残ってるってか!?」

18000×200=360万円!

おい、一つの主催公演で360万円も赤字を出すって、前代未聞だぞ。
何となく胃のあたりが冷たくなった。いや、他の人から見れば

「ビジネスだもの。時にはそんなこともあるさ。360万円? 足しいた額ではないやないか」

なのかも知れない。
しかし、私はこれまで経営をやったことがない。新聞記者とは全くお金の臭いをかがない仕事なのである。そんな私にとって、360万円は目もくらみそうな大金である。
ましてや、私の改革案を実行する中での360万円である。ここで転けたら、改革案は棚上げにされかねない。

スーッと冷えていく胃を抱えながら、思案をこらした。どうしたらよかろう?

ふと思いついたのは、デジキャス時代に、あのH氏が発した言葉である。

「大道さん、ビジネスの基本はホウレンソウ、つまり報告、連絡、相談だって行って、報告も連絡もしない部下をしかり飛ばす上司がいるけど、あれ、おかしいよね。ホウレンソウって、下の連中が自分を守るためにやることじゃないですか。報告、連絡、相談をすれば、その仕事の責任は、報告、連絡、相談を受けた上司に移るんだよ。だって、すべてを知った上で、上司がやっていいといったんだから」

そうだ、ホウレンソウを実行しよう!

朝日ホールは事業本部の1セクションである。上司は事業担当役員、局長、局次長、ということになる。私は途中はすっ飛ばして、事業担当役員を使うことにした。間にいる中間管理職が何となく頼りなかったからである。

「ホール改革案はすでにご説明しました。その一つ、世界の超一流演奏家の招聘の第1号がツィメルマンのコンサートです。満席になればトントンの見通しですが、実はチケットの売れ行きが350枚でピタリと止まりました。まだ日数があるので何とかなるとは思っていますが、悪くすると200万円から300万円の赤字になります。それでも、ホールを建て直すには避けては通れないリスクだと思ってやっております」

ま、そのような趣旨を報告、連絡、相談のどれに当たるかはどうでもいいが、説明した。さて、この人、どう出るか? 苦虫をかみつぶしたような顔をして私を睨みつけるか? 睨みつけても、もうホウレンソウしちゃったもんね。もうチケットは売り出してるから中止はできないもんね。ということは、責任はあなたにあるんだから、さ。

そして、私の思惑はまんまと当たった。

「うん、君の改革案はよくできていると思っている。確かに、これはやらなきゃいけないことだよ。結果は気にせずに、とにかくがんばってくれ」

その瞬間、冷え込んでいた私の胃袋に血液が流れ始めた。フワーッと温かくなったのである。一丁上がり、とまではいうまい。だが、これで何も心配せずに公演に臨める。私は、サラリーマンの身過ぎ世過ぎのテクニックを、生まれて初めて使ったのであった。

それからしばらくして、ツィメルマンが浜離宮ホールで演奏する曲目が音楽事務所から知らされた。すぐにチケット販売を委託している先に伝え、ホールのホームページでも紹介した。驚いたことに、今度は本当に羽が生えたかのように、残りのチケットが売れた。552席完売である。そうか、ファンってそんなものか。聴きたい曲を演奏してくれると分かると、チケットに群がるのか。いずれにしても、トントン!

当日、私もホール内に入ってツィメルマンの演奏を聴いた。
クリスチャン・ツィメルマン。ポーランドの人である。1975年のショパンコンクールで優勝。スタインウェイのピアノを好み、どこで演奏するにも自前の鍵盤を2つか3つ持参し、現地が用意したスタインウェイのピアノの鍵盤と取り替え、その日一番しっくり来た鍵盤で演奏する。
浜離宮にも2つの鍵盤を持ち込み、確かスタインウェイの日本法人が持ち込んだピアノに取り付けて念入りに調整していた。これは職人のこだわりなのか、単なる変わり者なのか。

弘法筆を選ばず

の対極にある人である。

ウィキペディアでは

「世界のクラシック音楽界で最も高い評価を受けているピアニストの一人」

と書かれている。そんな偉大なピアニストが目の前で演奏している。

ああ、それなのに、それなのに。やはり私には猫に小判豚に真珠ある。それほど演奏に感じ入ることもなく、ただただ、収支トントンで世界の超一流演奏家を浜離宮ホールに招くことができてよかった、と胸をなで下ろしていたのである。