2019
01.27

2019年1月27日 総支配人 その12

らかす日誌

さて、ホールの運営が軌道に乗った。私が描いた再建策が順調に動き始めた。
それはよい。それはよいのだが、不思議なことに気がついた。私、会社に出てホール事務室の私の椅子に座ると、何にもやることがないのである。

席に座ると、まずパソコンを立ち上げる。パソコンが操作可能になるまでぐるりと部屋を見回す。みな忙しそうに立ち働いている。まだ顔を見せていないのは、出社途中で音楽事務所にでも立ち寄っているのか。ホールを借りたいという人が訪ねてくる。貸しホール担当(朝日建物管理の社員)が案内して打ち合わせスペースに行く。
そう、みんな働いているのに、何故か私だけやることがないのだ。

である。暇をもてあまし、あのW君に

「おい、今日君は○○音楽事務所に行くんだよね。俺も行っていいかな?」

と暇つぶし対策を始める。

ダメですよ。支配人が一緒だと相手が萎縮します。来ないでください」

とにべもない返事が戻ってくる。

「ああ、そうなの。音楽事務所の人たちってそんなに気が弱いんだ」

と憎まれ口をきいてみるが、考えてみれば、原則として私は音楽事務所の人には会わない、というのも私の改革案の一つである。言い出した私が、支配人の権限を使って

「いや、俺は行く。連れて行け」

というわけにもいかない。やむなく、動き出したパソコンに向かってコンピューターゲームを始める。ま、これでちゃんと給料をもらえるのだから、考えようによっては天国である。しかし、宗教家が描く天国がどう考えても退屈であるように、天国とは退屈な場所である。何より、地獄図にあるリアリティが全く欠けている。

例えば、天台宗の僧・源信が「往生要集」で描いた浄土は次のようなものだ。

その世界は地面が瑠璃で出来ていて、道の両側には金の縄が張られている。地は平坦で高低がなく、広々とどこまでも広がっている。明るく輝いて清々しい。地面には妙なる衣が敷かれ、すべての人や神はその上を歩く。
たくさんの宝で出来た国土の一地域ごとに500億の名宝からなる宮殿・楼閣がある。高低のさまは心にかない、広さは思い通りだ。もろもろの宝を置く台座には美しい布が敷かれ、まわりを七重の手すりが取り巻き、100億の豪華な幢(はた)が立ち、珠を連ねた瓔珞(ようらく=垂れ飾り)が垂れ、上には宝の天蓋がかぶせられている。宮殿の内部では、楼の上にたくさんの天人が集まって伎楽を奏し,如来のために歌っている。(「日本精神史」=長谷川宏著、より抜粋)

ほんの一部だが、浄土=天国のつまらなさをご理解いただいたであろうか。そもそも、富も名誉も否定するはずの宗教が、ありったけの財宝を使わないことには浄土=天国を描けないとはどうしたことか。

ま、それはそれとして、とにかく暇なのだ。

「ちょっと相談があるんだけど」

と私が電話をかけたのは、IT系の会社を経営するS君だった。

「飲みに行こうよ」

確かその夜、S君と酒を飲んだ。

「というわけで、ホールの改革を進めている。いまのところ、改革は順調に進んでいるんだけど、アッと気がついたら、俺に仕事が残ってないんだよね。毎日会社に行っても、やることがない。退屈で退屈で困ってる。でも、責任者がこれだけ暇だという職場をどう思う? 俺の改革案、結局、俺は心のどこかで仕事を嫌っていて、仕事をしないために編み出しちゃったのかな? どうしたらいいと思う?」

真面目な相談だった。S君も真面目に答えてくれた。

素晴らしいじゃないですか。経営って、それが理想なんですよ。一番上に座るヤツは、出来るだけ仕事をしない。必要な仕事はすべて部下が責任を持ってやってくれる。会社を経営する上で、こんなにいいことはないんです。素晴らしい!」

いってみれば、S君は私のホール改革案にお墨付きをくれた。私はホッとした。俺が間違ったんじゃないんだ!
次の日から、安心して、堂々とパソコンゲームにのめり込んだことはいうまでもない。

とはいえ、一つだけ自分に残した仕事があった。クレーム処理である。ホールの経営には、様々なクレームが付きものなのだ。それを、職員に処理させたのでは、彼らが本来やらねばならない仕事の邪魔になる。であれば、暇をもてあましている私が引き受けるのが筋である。

様々なクレーマーにあった。ま、話してみれば即座に解決するものがほとんどで、たいした負担ではなかった。ただ、一つだけ思い処理があった。

「大道さん」

といってきたのは、有楽町の朝日ホールの責任者を任せているKさんである。なにやら深刻な顔をしている。

「実は、ずっと困っている問題がありまして」

有楽町朝日ホールでは、ほぼ毎月1回、朝日名人会という落語の会をやっている。ソニーで落語の収録をずっとやってきたKさん(同じKで紛らわしいが、お許しいただきたい。こちらをソニーKさんとでもするか)に誰を出すかから始まって出演者との交渉まですべてお任せし、質の高さで人気を集めた。いまでは朝日名人会のチケットは、なかなか手に入らないプラチナチケットである。

その朝日名人会を食い物にしているとしか思えない朝日新聞OBがいるというのである。毎月、パンフレットに出演者、出し物の紹介原稿を書いてもらって10万円(確かそうだった)を支払っているが、それだけにとどまらず、

「必要だ」

といって、プラチナチケットである朝日名人会のチケットを10数枚持っていく。1枚4000円だったから、ほんのわずかばかりの原稿に10数万円を支払っていることになる。

聞くと、このOBがちらつかせるのは、ソニーKさんを紹介したのは俺だ、ということである。朝日名人会が今日のような評価を受けているのは俺が口をきいてやったからだ。いわば恩人なのだから、原稿料を払い、10枚や20枚のチケットを融通するのは当たり前だろう、というわけだ。

「まあ、チケットをゆすりに来るのは論外としても、原稿を頼んでいるのなら、それなりの原稿料を払うのは当たり前ではないですか?」

と聞いてみた。Kさんはこう答えた。

「その原稿にも困っているんです。しょっちゅうネタバレの原稿を書いて、実は口座に登っていただく落語家さんにも評判が悪い。ソニーKさんも、そんなわけで困っていらっしゃるんです」

しかし、それはずいぶん以前に始まったことである。どうして今になって問題にするのか?
Kさんは明瞭には答えなかったが、どうやらこういうことらしい。Kさんは朝日新聞では印刷職場(発送職場だったかも知れない)にいた人である。そして、困りもののOBはかつて、学芸部にいた元新聞記者である。朝日新聞とは記者が訳もなく威張る組織で、編集にあらずば人に非ず、という空気がある。そして、他の職場の人もそれを受け入れているから困ったものだ。
だから、編集出身でないKさんの目には、編集出身の総支配人は、いわば雲の上の存在で、しかも、編集の出身者はどうせかばい合う同じ穴の狢(むじな)なのだろうという諦めがあった。だから、前任のO君に相談したことはないし、私も編集出身の総支配人である。これまで

「言ってはいけないこと」

と自分を封印していたらしい。それが、しばらく私を見ていて

「これなら相談してもいいのではないか」

と思うに至ったらしいのである。信頼していただいた私としては嬉しい限りで、であれば、Kさんの悩みの種を取り除いてやらねばならない。

まず、ソニーKさんに相談した。Kさんの話の裏を取るためである。ソニーKさんの話は、Kさんの話とピタリ一致した。次は、OB氏を排除するとして、パンフレットの原稿を誰に依頼するかである。

「ええ、出演者の紹介は別として、パンフレットに出し物の紹介まではいりませんよ。落語ってそんなものです。寄席では落語家は口座に登るまで何をやるかを決めてないんです。口座に登りながら考えてやっちゃうのが落語なんですから、事前の紹介しようがない芸なんです。でもねえ、ここのお客さんは紹介付きになれていらっしゃるから、うん、良かったら私が書きます。だから、あのOBを切り離していただいても何にも困りません」

ソニーKさんは落語についての著書をたくさんだしていらっしゃる。私も何冊か読んだが、実に面白おかしく、しかも深く落語を書いていらっしゃる。朝日新聞の元学芸記者より、ずっと上のライターであると行っていい。こうなると、私としてはOBの首を切るしかない。だが、どうやって引導を渡すか? しばらく考えた。

そのOBと顔を合わせたのは、確か朝日名人会の日である。顔も知らなかったので紹介され、支配人室で向かい合った。

「実はいま、朝日新聞は経営改革に取り組んでいます(本当か?)。ホールにも、経理を通じて採算性を高めよと言う圧力がかかっています。つまり、経費を出来るだけ切り詰めろと言うわけです(主催公演の数字しか見ない会社がそんなことをいうわけがないが、OBがそんなことまで知るはずはない)。そこで、誠に申し訳ないのですが、パンフレット用の原稿をお願いするのは今回限りでお仕舞いにすることにしました。また、チケットも出来るだけ多く有料で販売しなければなりません。空きが目立つのならともかく、朝日名人会は毎回チケットは売り切れ状態ですから、これまでお渡ししていたチケットも、今回限りと言うことでご承知いただきたいのです」

OBの顔色が変わった。

「何言ってるの。僕はねえ、この朝日名人会のはじめから関わっているんだよ。私が口利きをしたから……」

そんなことを言わせては面倒である。

「はい、すべて承知しています。しかし、もうあれからずいぶん時間がたちました。いろいろ考えて出した結論ですので、曲げてお願いします。とにかく、会社の大方針であるものですから」

いや、腹の中では

「このたかり野郎が!」

と舌を出しながらの対応である。こんな腹芸が出来るとは、私もそれなりに齢を重ねてきたのだなあ、と感慨に浸りながらの対応である。

まだまだグチャグチャ言っていたが、私は聞く耳を持たなかった。このOBを切る。その線は絶対に曲げなかった。彼が諦めて腰を上げるまでに、さて30分ぐらいはかかったろうか。
こうして、最大の問題を解決した私であった。

この話には後日談がある。

「先日ですけどね、あるホテルのトイレで、あのOBさんとバッタリ出会ってしまいましてね」

と話してくれたのは、ソニーKさんだった。あれまあ、あのたかり野郎と突然の邂逅。嬉しいはずはない。

「そうしたら『支配人に手を回したのはお前だろう』って言いながら、突然殴りかかってきたんですよ。はい、殴られました。1発だけですけどね」

仰天した。逆恨みもここまで来ればなにをか言わんやである。
私は平謝りに謝った。
本来なら、ヤツが殴りたいのは私のはずである。私は身長が182cmあり、体重も82kg程あった。小ぶりであったこのOBは、殴り合いになったら私には勝てっこないと踏んだのか。そして、小柄のソニーKさんをターゲットにしたのか。
卑劣なヤツである。

「いえ、いいんですよ。こぶもずっと前に引っ込みましたし、こぶ一つであの人との縁が切れるのなら儲けものです」

まったく、世の中には下らない人間がいる。朝日新聞社にも、数多くの下らないヤツがいたのである、