01.29
2019年1月29日 総支配人 その13
ホールの事務室に、実に困った人がいた。というか、ホール事務室の空気を一人で象徴するような人がいた。女性である。
彼女は、朝日新聞から朝日建物管理に出向中であった。考えみてみればひどいもので、朝日新聞の社員が朝日新聞の社員として仕事をしている部屋に、何故か朝日新聞から、業務委託先の朝日建物管理に出向させられて一緒に働く。給与は朝日新聞の給与体系で支払われるが、職場での指揮命令系統では朝日新聞社員の下につくことになる。気分がいいはずはない。
朝日新聞社員、朝日新聞から朝日建物管理に出向中の社員、朝日建物管理の社員、そしてアルバイト、と職場が4つの層を重ね合わされてしまったがゆえの複雑な人間関係の犠牲者ともいえる。
彼女はことあるごとに出向を解除して欲しいと訴えた。同じ職場で働くにしても、朝日新聞社員として働きたいと。筋の通った不満である。それだけなら問題が生まれるはずはない。
問題は、彼女が自ら、朝日建物管理の社員と自分とは身分が違うのだ、と行動で表現したことから生まれた。
一部の業務を他の会社に委託すれば、枢要な仕事は朝日新聞社員でこなし、どちらかと言えば下働きに近い仕事が委託先の社員の仕事になる。仕組み上、そうならざるを得ない。彼女はこれを認めなかった。いまは朝日建物管理の社員ではあるが、そもそも自分は朝日新聞に採用されたのであり、子会社の朝日建物管理に採用されたあなた方とは違うのである、とボディランゲージで語り続けた。
いまの彼女は朝日建物管理の社員である。だから、そうした仕事が彼女にも割り振られる。これが彼女のプライドを傷つける。傷ついただけなら、単なる被害者で、何かにつけて励ましてやる必要はあるかも知れないが、職場の困りものにはならない。
彼女は自分のプライドを守ろうとした。何かにつけ、朝日建物管理の同僚を下に見たのである。
「あの人が仕事をしません。何かというと、『これ、やっといてね』と私の机の上に書類を放り出して出て行きます。いえ、声をかけてくれるのならまだ許せるかも知れませんが、彼女に割り振られた仕事の書類が、知らないうちに私の机に置いてあるんです」
「一緒に仕事をしていても、私たちと話そうとしないんですよね。身分が違うのよ、とでもいいたいんでしょう」
私が職場に慣れたころから、そんな訴えが朝日建物管理の人たちから寄せられるようになった。確かに、彼女が事務室にいると部屋中に緊張が走るのが私にも分かり始めた。彼女がいなくなると、その空気が緩む。
職場の空気を清浄(正常?)にするのは、トップの責任である。何度か彼女と2人だけで話をした。話すと、その日からメールが来るようになった。すぐそばの机に座っているのに、何故か私にメールをよこす。
そのうち、夜遅くにもメールが届くようになった。
「いま、自宅で1人、ワインを飲んでるんです……」
といったたぐいの、どうでもいいメールである。取りようによっては、誘惑のメールともいえる。返事は一度も出さなかった。それなのに、彼女からは続々とメールが来る。
その中身を読みながら、あることに気がついた。私が話した中身を、彼女は勝手に、一部を切り取って理解するのである。つまり、好きなところだけを取る、私が
「行かなきゃならないとは思ってるんだが、行けるかどうか」
と話したのを
「あなたは行くって言ったじゃない!」
と理解するたぐいである。
こんなことがあった。
出向させられていることに強いこだわりを持っていたので、私もこれまで5年間、デジキャスに出向していたことを話した。戻されるときは、むしろ戻すな、と抵抗したこと、出向も考えようによっては新しいチャンスであり、私は出向したために多くのテレビマンと仲良くなり、定年になったらテレビ局に行きたいと思うようになったこと……。
数日したら、彼女からメールが来た。
「テレビ朝日の社長にあなたがテレビ局に行きたがっていることを伝えておきました」
おいおい、ちょっと待て! 俺はそんなつもりであの話をしたのではないぞ!!
そういえば彼女は、テレビ朝日の社長が朝日新聞の役員だった時代、その専属秘書をしていたのだった。仕事上の関係が終わっても、プライベートで、電話で話せる関係を保っていたことを、私は知らなかったのである。
彼女の最大の不満は、出向させられていることだった。ホールの事務室を見回して、その不満を解消出来るのは、つまり、彼女を朝日新聞社員に戻すことが出来るのは、総支配人である私しかいないと思った。だから私に恩を売ろうとしたのではないか、と私は思う。だが、そんなものに乗っかったら飛んでもないことになる、位の常識は私にある。私としては、ありがたくもない迷惑に過ぎないのである。
加えて彼女の仕事には、手落ちが目立った。
こうなれば、何とかして彼女を異動させるしかない。とはいっても、私は社内政治などやったことがない。人事異動とは上から落ちてくるもので、自分で動かすものではなかった。どうしたら彼女を異動出来る?
「私が何とかしてみます」
といってくれたのは、副支配人である。社内に多くの友人、知人を持つ彼が、そのネットワークを総動員するという。
期待した。当てが外れた。
「いやあ、みんな知ってるんですね、途中までは話がうまく行くんですが、彼女の名前を出した瞬間に『飛んでもない!』って拒絶されまして」
万策尽きた私は、直接上司に当たるしかなくなった。
「ホールの改革は道半ばです。彼女を抱えていたら、うまく行くものも行きません。それに、彼女を創り出したのは朝日新聞なんだから、その管理を朝日建物管理に放り投げるというのは責任回避です。何とかしてもらいたい。何とかするのがあなたの責任です」
すれから数ヶ月後、彼女の異動が決まった。
1)彼女からのメールがパッタリ来なくなった。
2)異動先の部長から恨まれた。仕方なく、酒をごちそうして謝った。
朝日建物管理の人たちが大いに喜んでくれたことは言うまでもない。
そんなことを続けいているうちに、朝日建物管理の女性から
「ご相談があるのですが」
と声がかかった。ふむ、私に相談? あなたには夫も子どももいるし、私も妻と子どもを抱える身だが、それでも、相談?
「みんなで相談したのですが、私たちも小ホール(浜離宮には音楽ホールと一般ホールがある。その一般ホールをこう呼ぶ)の営業に出たいのですが、よろしいでしょうか?」
驚いた。それまで朝日建物管理の人たちは、命じられた仕事だけを淡々とこなす、というスタンスだった。朝日新聞のホールがうまく運営されるかどうかは朝日新聞の人たちが考えて行動すればいいことで、私たちには関係ない。それに、朝日新聞社員が、ひょっとしたら偉そうな顔をして上にいる。何であいつらを助けなくちゃならない? 安い給料分だけ仕事をすればいいじゃない。
私も、4層構造の職場の中で、彼らにそこまで望むつもりはなかった。それを、彼らの方から、もっと仕事をさせてくれ、もっと働きたいと言ってくる。
「それで、まず営業用のパンフレットを作りたいんです。そして、外に出るのですから、移動にかかる費用は会社で負担していただきたいと思っているのですが」
感激した。
もちろんパンフレットはすぐに作ってください。ホールの経費で落とします。足代を会社が持つのは当たり前です。出来ることなら出張手当も付けたいところですが、朝日新聞の規定では都内出張には出張費が出ません。それはかんべんしてください。
確かに私は、より良いホールにしようとあれこれ考えてきた。ホールを良くするには、朝日建物管理の人たちが、朝日新聞との給与格差は今のところ何とも出来ないので、少なくとも気持ちよくい働ける職場にしなければならないと思い続けてきた。朝日建物管理の人たちと、私の大事な仕事仲間として付き合ってきた。
いくら考えても、私がやったことはたったそれだけである。
いったい何が、彼女を、あるいは彼らを、もっと働いてホールを良くしようと思わせたのか。いまに至るも謎である。
いずれにしても、ホールの事務室が心から気持ちよい職場に変わった。出勤するのが楽しくなってきた。