2019
02.02

2019年2月2日 総支配人 その15

らかす日誌

総支配人とはいえ、私は有楽町朝日ホールにはあまり目を向けないサボり専門だった。

一つには、有楽町朝日ホールではあまり朝日新聞主催の公演は行わず、ほとんどが貸しホールとして動いていたことがある。JR有楽町駅すぐ近くという立地の良さもあり、稼働率は80%(確か)にも上って、ホールのメンテをする日を除くと、ほぼフル稼働の状態だった。これ以上の稼働率向上はありえず、放っておけば良かった。

もう一つは、会社が数字を見るのは主催公演だけ、ということもあっただろう。ということは、ほとんどの主催公演は浜離宮朝日ホールのクラシック音楽演奏会であり、私の目が浜離宮から離れがたかったこともご理解いただけるのではないか。

私が有楽町に顔を出すのは、ほぼ毎月1回の落語会、「朝日名人会」を除けば、有楽町で働いている仲間たちとの交歓のため、あるいは私が有楽町朝日ホールの最高責任者であることを彼らに刷り込むため、であった。簡単に言えば、

「飲みに行かない?」

である。

だから、何故、その日有楽町ホールのスケジュール表を見る気になったのか、今となっては良く覚えていない。

「えっ。PANTAがうちのホールに来る?!」

この日誌を読み継いでいただいている方々の記憶の片隅には、PANTAという固有名詞が転がっているかも知れない。PANTAとは、ロックバンド「頭脳警察」のリーダー兼ヴォーカリスト兼ギタリストである。

改めてご紹介すると、私が頭脳警察を初めて知ったのは大学生の時だった。その日、いまは我が妻女殿に収まっている女性が、はるばる横浜から福岡の私のところに遊びに来ていた。何しろこの女性、会って5日たったときにはすでに婚約まで進んでいた相手である。その経緯もそのうち書くことがるかも知れぬが、いまは素通りする。この時はもう婚約期間中であった。

博多湾に能古の島がある。当然、船でしか渡れない。ここで野外ロック・フォークコンサートが開かれるというのは、いまの妻女殿が持ち込んだ情報だった。

「行こうよ」

といわれてその気になった。婚約期間中というのは、その程度の軽い乗りがあって楽しくなるものだ。

実に、全くみごとな野外コンサートだった。舞台にも客席にも天井はない。というか、客席もなく、我々聴衆はのっ原に座り込む、あるいはゴロ寝をしながらステージで演奏される音楽に浸る。
誰がステージに立ったのか、あまり記憶はない。記憶にあるのは「海援隊」だけである。妻女殿にも確かめたが、やはり「海援隊」しか記憶にないそうだ。「海援隊」、あの金八先生、武田鉄矢がリーダーだったグループである。私は好きではなかった。
しかし、2人で行って、2人とも「海援隊」しか記憶にないとは、いくらその後夫婦になったとはいえ、共通しすぎる。おそらく、他には名の知れたヤツは出ていなかったのだろう。それなのに、ノコノコ能古の島まで出かけたのは、軽すぎる乗りのためとしか思えない。

そんな野外コンサートだから、暇である。暇であるのは私たちだけでなかったようで、すぐ横から大きな声がした。

ミミズのおるぞ!」

見ると、棒っ切れを持った男が、その棒っ切れの先でミミズをつり上げている。でかい! 体長20cmから30cmはあろうかという巨大ミミズであった。ステージはほったらかしてその男を見ていたら、やがて彼はミミズにも飽きたのか、棒っ切れを一振りすると遠くへ巨大ミミズを放り投げた。その後のミミズの行方は知れない。

その原っぱで寝た。夏場のイベントである。上掛けなどいらない。つまらぬ音楽が睡眠剤の役割を果たした。2人、全くの自然児となって(裸になったという意味ではない)土の上で夢の世界に入った。

その夢の世界を破ったのは、ステージから来る音楽であった。エレキギターをブラッシング(左手の指で軽く弦に触れ、右手に持ったピックで弾く奏法。シャカシャカした音が出る。左利きの人は左右が逆になることはいうまでもない)する音が何とも格好いい。いや、当時はギターにそのような弾き方があることなんて知らなかったから、生まれて初めてのシャカシャカ音に聞き惚れてしまった。

その曲は、今になって思い出すと「ふさけるんじゃねえよ」である。

まわりを気にして生きるよりゃひとりで
勝手気ままにグラスでも決めてる方がいいのさ
だけどみんな俺に手錠をかけたがるのさ
ふざけるんじゃねえよ 動物じゃないんだぜ

横で寝ていた未来の妻女殿を揺り起こし、プログラムを見る。「頭脳警察」とある。初めて目にするバンドだ。舞台に目をやると、左利きのギタリストが頭にバンダナを巻き、ギターを弾きながらマイクに向かってがなり立てている。舞台には彼とドラマーしかいなかった。たった2人のロックバンド。これも珍しい。
そのヴォーカリスト兼ギタリストがPANTAだった。

コンサートから戻ると、すぐに天神町のレコードショップに駆けつけた。

「頭脳警察のアルバム」

を買おうというのである。

頭脳警察3

というアルバムが見つかった。

「3ということは、1と2もあるわけですね。取り寄せられますか?」

店員は答えた。

「どちらも発売禁止で手に入らないんです」

アルバムが発売禁止になるバンド! 頭脳警察にのめり込んだのはそれ以来である。
その後、「2」は新宿の中古レコード屋で手に入れた。「1」はCDで発売されるまで、私には「幻」のアルバムだった。
あとで聞くと、「1」は発売則発禁。暴力革命を煽った「銃をとれ」や「世界革命戦争宣言」が引っかかったらしい。日本は自由な言論の国とだと思っていたが、実は違うらしい。
「2」は発売後1ヶ月で発禁。これも同じような理由だそうだ。

「1枚目のアルバムは、発禁になって一時は2万円の値段がついたんだって」

とは、後にPANTAの口から聞いた話だが、この時の私は、まだ彼とは知り合っていない。

ということで話を戻す。
私が運営する朝日ホールに,あのPANTAが来る! こりゃあ役得を活かすしかない! PANTAに会おう!!

土曜日だった。本来は休日だが、私は有楽町朝日ホールに出かけた。どこかの労働組合の集会で、PANTAは客寄せPANTA(パンダのシャレ!)として出演していた。
出番が終わるのを待ち、楽屋に訪ねた。

「初めまして。このホールの支配人をしている大道です。実は学生時代から『頭脳警察』の大ファンで、ホールの予定表を見ていたらあなたの名前があったので飛んできました。昼飯でもどうですか?」

こうして彼との付き合いが始まった。

その日は昼食を食べたあと一緒に出ていたギタリストと一緒に浜離宮朝日ホールを案内した。

「どうです、音響のいいホールでしょ。ええ、音を出していいですよ」

ギタリストがギターを取り出した。

「うわー、すげぇ。俺、3ランクぐらい腕が良くなったような気がするわ!」

ふむ、分かる人には分かる。なにしろ浜離宮朝日ホールは世界で一番響きが美しい室内楽専用ホールなのだ。

「どうです、ここでアコースティックだけ、マイクなしのコンサートをやってみませんか?」

真顔で問いかけた。私はやる気十分だった。

「うーん、マイクなしってのは、ウィスパーが怖いな」

ウィスパーとは小声で歌うことだと見当をつけた私は

「いや、このホールはチェンバロの音も隅々まで聞こえるので、大丈夫だと思いますけどね」

と追いかけたが、返答はもらえなかった。

もっとも、暴力革命を煽ったといわれる『頭脳警察」が、赤新聞ともいわれた朝日新聞のホールでコンサートをやる。なんか組み合わせがはまりすぎて、右翼の街宣カーに襲いかかられるかなあ、という懸念も、私にないではなかったが。

自宅に招いた。

「ビートルズのコピーをやってみようかなあ、って思ってるんだよね」

という彼に、

「だったら、私、海賊版を100枚ほど持ってます。欲しいのコピーしますから、欲しいのを選んで」

と誘ったのである。
彼は、乗った。シュニッツァー仕様の愛車BMW750(だったと思う)のハンドルを自ら操り、会社まで私を迎えに来てくれた。

「凄い車!」

と驚くと、

「俺、ロックやってんのに酒が飲めないのよ。だから、どこに行くのも車。やっぱシュニッツァーはいいねえ」

といったが、同乗している私には、走っている間中、あちこちから異音が聞こえるかなりガタのきた中古車にしか思えなかったのだが、もちろん、彼に告げるようなはしたないまねはしていない。

PANTAとの付き合いが深まったのは、むしろ桐生に来てからである。メールを交換しているうちに

「一度行くよ」

といって、本当に来た。車で桐生市を案内した。隣のみどり市大間々町にある「ながめ余興場」をすっかり気に入ったようだった。

2度目は

「今度、桐生で歌うことになって」

との連絡が来た。彼の知人が桐生に縁があり、一緒に来るという。そして、桐生で無料コンサートをやることになったというのだ。妻女殿と2人で参加したのはいうまでもない。

「でも、桐生で一度、本格的なコンサートをやりたいね」

といったのは私だった。

「そうね。だったら、こいつと話してよ」

と答えたのはPANTAだった。多分、「こいつ」はマネージャーなのだろう。

多少なりとも、音楽ビジネスに携わった経験が、私にはある。多少の経験があるから、音楽ビジネスのリスクも分かる。

「俺はPANTAの大ファンである。だけど、桐生周辺にPANTAのファンはどれほどいるのだ?」

東京にいた時代、何度かPANTAに招かれて彼のコンサートに出かけた。客は多く見積もって400人もいたろうか。人口1000万人の東京で400人。人口12万人(当時)の桐生で何人集まる? 計算すると、4人? 5人? そんな……。

集まる客はせいぜい40人と踏んだ。1人4000円の入場料を取っても、総収入は16万円である。会場代を払えば、たいした金は残らない。

「ということで、たいした金は払えないんだけど、それでも来てくれる?」

おずおずと持ちかけたら、それでもいいという返事をもらった。さあ、場所を探さなくちゃ!

「ヴィレッジ」というジャズバーに話を持ち込んだ。収容人数の上限は40人。格安の料金で使っていいという。
チケットの販売を始めた。あのO氏に

「頼む!」

と頼み込み、何とか40枚を完売したときは、正直ホッとした。

日曜日の夕方4時に始まったコンサートは、なんと7時まで続いた。せいぜい2時間と踏んでいた私は、その後の夕食会兼交歓会を6時半から予定していた。だが、6時を回っても一向に終わる気配がない。焦り始めた。

「ごめん、宴会の始まりが少しずれ込むみたい」

とお店に電話を入れ、マネージャーに

「何時まで続く?」

と飛び回っていたら、ステージからPANTAの声が聞こえた。

「私を桐生に招いてくれた大道さんに感謝を込めて、『さようなら世界婦人よ』をやります」

その時だけは席に着いて耳を傾けたのはいうまでもない。

夕食券交換会に移ったのは、7時半である。何と、3時間のロングコンサートだった。歌い続けての3時間。さすがにプロの喉はすごいものである。

「何で俺が支配人?」

と、渋々だった総支配人という仕事も、実り豊かな人間関係をもたらしてくれた。人間至る処青山あり、である。隣の芝生は青い、などとふてくされていたら、こんな楽しい経験は出来なかったはずだ。

もう一度、PANTAのコンサートを桐生で開けないだろうか、と考え始めている最近の私である。