07.06
我々は文明人になったのでしょうか?
しばらく前に読み始めた「零戦燃ゆ」を第5巻の半ばまで読み進んだ。文庫本で全6冊。随分長くかかっているようにも見えるが、並行して「ローマ人の物語」を読み、「文藝春秋」を読み、「選択」を読み、おまけに「ビッグ・コミック」、「ビッグ・コミック・オリジナル」まで読んでのこの速度だから、まあそこそこの読書速度だろう。
あ、このあたりが私の「教養」の原点であることがばれたかな?
そもそもこの本を読み始めたのは、零戦をキーワードに、当時の日米の議鬱開発強をの一面を知りたいと思ったからだった。太平洋戦争開始時には圧倒的な性能を誇って米軍を恐れさせた零戦が、技術という目を通したときにどのような推移をたどったのか。
狙いは外れていなかった。読めば読むほど
「なるほど、そうだったのか」
と思わせてくれるいい本である。
だが、日米戦争の中で零戦を語るこの本は、零戦が徐々に神通力を失って行く過程を、具体的な戦闘の中で語る手法をとった。だから、日本海軍による真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争の全容を、
「神は細部に宿る」
とでもいうように詳細なデータで辿る。
ああ、当時の日本は何という不合理な考え方、ものの見方をしていたのか、と負けに終わった戦局を突きつけられる度にひしひしと感じてしまう。自分をそれほどの愛国者であると思ったことはないが、それでもこの本を読みながらじれったくなってしまうのは、やはり私も日本人だからだろう。
それは横に置いておいて、もう一つ感じたことがある。当時の日本に充満したいたとも思える、命の軽さである。
登場して数年の間、世界最高の戦闘能力を誇る戦闘機であったゼロ戦には、致命的な欠陥があった。防御能力である。米国の戦闘機はパイロットを守るため、シートには分厚い鋼板を入れ、敵弾を防いだ。燃料タンクにはゴムを使った自動修復装置が組み込まれ、燃料タンクに被弾しても燃料漏れ、発火が起きるのを出来るかぎり防いだ。
ところが零戦にはパイロットを守る仕掛けが一切ない。ゼロ戦のシートは敵弾をやすやすと貫通させ、燃料タンクは被弾すれば火を噴いた。そのようなパイロットを守る装置を切り捨て、機体を可能な限り軽くしたからこそ、世界一の旋回能力と他の戦闘機には真似が出来ない航続距離、そして出力が劣るエンジンしかなかったのにもかかわらず、それなりの最高速度が出せたのである。
いってみれば、パイロットの命を守るのではなく、命なんてどうでもいいと割り切って設計したから、零戦は世界一の戦闘機になった。
「攻撃は最大の防御である」
という空疎な言葉をそのまま信じたのが当時の海軍であり、その銘を受けて設計した技術者たちだったのである。
並行して読み進めた「ローマ人の物語」は、最終巻に近づくにつれて、ローマ領に侵入する異民族の話が増える。歴史の教科書で言えば民族の大移動でローマ帝国が浸食される過程である。
もちろん、ローマ帝国は何とかして異民族の侵入を防ごうとした。何度も成功するのだが、それを叙述する塩野七生さんの表現にハッとさせられた。
ローマ帝国は当時、世界最高の文明を誇っていた。その領土を目指す異民族は未開の民である。ローマと異民族の闘いの中で、塩野さんは何度も、文明化されていない民にとって、同胞の命は大変に軽いものだった、という趣旨のことを書いている。ドナウ川を渡ってローマ領に入ろうとする異民族は、渡河途中で流れにさらわれる同胞に見向きもせず、ローマ軍との戦闘で同胞が何人死のうと気にする様子もなく、行軍を続けた。そんな叙述が何度も出てくる。
ということは、である。
1人の命は地球より重い
などというのは文明社会の中でしか通用しない考え方である、ということではないか?
日米の飛行機開発競争に戻れば、パイロットの生命を何より重視し、空戦能力が零戦より劣ってもその考えを捨てず、F4FからF6F、F8Fと続いた戦闘機の開発を、まずパイロットを守ること、次に戦闘能力を高めることの順序で開発を進めたアメリカは、文明国で会ったということである。
翻ってパイロットの命を軽く見た当時の日本は、文明の恩恵に浴さない未開民族であったということになりはしないか。
あと3年ほどすれば、敗戦から80年である。80年。私たちは未開民族から脱することが出来たのか? 同胞1人1人の命を、暮らしを守ることが何よりも大切だという社会を築き上げることが出来ているのか?
間もなく参議院選挙の投票日らしい。私の心に響いてくるような政治家の訴えが全く聞かれないのは、私が変なのだろうか? それとも政治が腐っているのだろうか?
皆様、参議院選挙の投票に足を運ばれますか?