12.09
文は短しを持って尊しとする。
親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校にいる時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かしたことがある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかもしれぬ。べつだん深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りることはできまい。弱虫やーい。と囃したからである。小使に負ぶさって帰ってきた時、おやじが大きな目をして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるかと言ったから、この次は抜かさずに飛んでみせますと応えた。
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生まれたか、とんと見当がつかぬ。なんでも薄暗いじめじめ(原文は「く」繰り返し記号)した所でニャーニャー(これも繰り返し記号が使われている)泣いていたことだけは記憶している。吾輩はこゝで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中でいちばん獰悪な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕まえて煮て食うという話である。しかしその当時は何という考えもなかったから、べつだん恐しいとも思わなかった。たゞ彼の掌に載せられてスーと持ち上げられた時なんだかフワフワ(ここも繰り返し記号)した感じがあったばかりである。掌の上で少し落ち付いて書生の顔を見たのが、いわゆる人間というものの見始めであろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一毛をもって装飾されべきはずの顔がつるつる(ここも繰り返し記号)してまるで薬罐だ。その後猫にもだいぶ逢ったがこんな片輪には一度も出会わしたことがない。加之(のみならず)顔の真中があまりに突起している。そうしてその穴から時々ぷうぷう(ここも繰り返し記号)と烟(けむり)を吹く。どうも咽せぽくて実に弱った。これが人間の飲むた烟草(たばこ)というものであることはようやくこのごろ知った。
山路を登りながら、こう考えた。
知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画ができる。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちら(ここも繰り返し記号)する唯の人である。唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
夏目漱石全集(角川書店)の3を読み始めた。この全集の再読を始めたのは9月である。
「読むのが遅いなあ、お前」
の声を浴びるかも知れない。確かに、昔に比べれば読書に充てる時間は減った。だが9月以降、この全集だけを読んできたわけではない。文藝春秋、選択などの雑誌もあるし、文庫本、新書本、それにほとんど併読する形で読んでいる高橋和巳全集もある。あ、ビッグコミックも。
まあ、それはどうでも良い。夏目漱石だけを読み継ぐのでは世界が狭くなりそうなので、他の本も取り混ぜている。よって遅々として進まないが、まだ漱石を読む楽しみが先にある、と思っている。
で、唐突なことに、夏目漱石の3作品の冒頭部分を書き写した。おわかりのことと思うが、最初が「坊っちゃん」、次が「吾輩は猫である」、最後が「草枕」である。
なぜ時間を掛けて3作品の冒頭を書き写したのか。皆様に、私が感じている文章のリズムをご理解頂きたいと、ふと思ったからだ。
文章にはリズムがある。軽快な文章、重々しい文章、晦渋な文章、地を這うような文章……。さまざまなリズムがあるが、私は歯切れのいい、軽快な文章が好きである。夏目漱石全集を読み進むうち、
「これだよなあ」
と私が理想とする文章がここにある。もっと読みたいと私に思わせる一因である。
どうです? 3つの文章、読んでいて何となく気持ちが良くありません? 文章がトントントンと転がっていく軽快さを感じません? こんなリズム感のある文章でも、深遠な思いを伝えることはできます。持って回った、読者を引きずり回すような文章より、まるで春の野原を散歩でもしているような軽快感のある文章で、深い内容を伝える。そこに夏目漱石の神髄があるのではないか、と思うのであります。
山道を登りながら夏目漱石が考えたことは、どこにでもある言葉で、奥の深い思想を伝えていると思いませんか? 深遠な思想を伝達するのに、哲学者が書くような、ついていくのに四苦八苦するような、うねった文章はいらないと私は思うのです。
この軽快なリズム感を生み出しているのが、一つ一つの文の短さです。ひとつの文が何文字でできているか数えてみました。最も短いのはたった5文字。
「弱虫やーい」
です。
次に短いのは7文字。
「吾輩は猫である」
「名前はまだ無い」
次いで9文字で
「と囃したからである」
「知に働けば角が立つ」
「意地を通せば窮屈だ」
最も長いのは75文字(読点を含む)で
「小使に負ぶさって帰ってきた時、おやじが大きな目をして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるかと言ったから、この次は抜かさずに飛んでみせますと応えた」
です。これは例外的で、あとは10数文字からせいぜい40文字止まり。こん短い文をが次から次への出てくることで、読んでいて心が弾んでくるような快感が生まれるのだ、と私は思うのです。
それに、文章が長くなると事故の元です。長々と書いているうちに、途中から主語が変わったり、修飾語と被修飾語の間が開いたり、前と後ろで主旨が変わってきたり、という事故が起きやすいのです。
短い文を重ねていく。これが私が文章を書く時のモットーです。文が長くなったら、どこかで切って2つ、3つの文に分けることはできないかと探します。そんなつもりで「らかす」も書いていることをお知り頂きたくて雑文を書いてしまいました。お許しを。