2023
05.30

私と朝日新聞 記者以前の10 来ちゃったんです!

らかす日誌

.岩国での大工仕事を終えて福岡に帰ってしばらくしたら、「ほびっと」で私に住所、氏名を書かせた横浜の女性からも手紙が来た。

「ほびっと」における私はそこそこ人気者で、私に手紙をよこしたのは横浜の彼女だけではない。私は数人の女性pen palを持つ身となった。

ここの話の本筋は横浜の女性である。話をそちらに限らせていただく。
私の下宿には電話がなかった。手紙が唯一のコミュニケーション手段である。そして、文通とは気楽なコミュニケーション手段でもある。相手の顔も目も見えない。勝手に想像を膨らませ、顔を合わせない気楽さからついつい筆が滑る。なにしろ相手は女性なのである。The Beatlesのラブソングを書き写したこともある。面と向かってはなかなか言えないことも、手紙なら書ける。
そんな勢いから、ついつい書いてしまった。

「時間ができたら、福岡まで遊びにおいでよ」

相手は横浜の女性である。そんな手紙を書いても来るはずはない。だって、九州新幹線はおろか、山陽新幹線も開通していない時代なのだ。横浜から福岡まで来るとなれば、夜汽車で20時間は揺られることになる。それにかなりのお金もかかる。私が

「横浜に遊びに来て」

という手紙を受け取っても

「そのうちね」

と返事を書いて、多分行かない。だから、そんな手紙を書いたって、彼女が来るはずはない。遊びにおいでよ、とは単なる言葉の遊びに過ぎない。

私はそう読んだ。それが完全に外れた。数日すると

「じゃあ、行きます」

という返事が来てしまったのだ。
えっ、来る? 嘘だろ?! 来てもらったって、泊めるところもないし、あちこち案内する資金にも乏しいぞ! そもそも、何しに来るんだ?

そんな返事を書いた。すると、

「泊まるのはあなたの部屋でいい」

という返事が戻ってきたではないか。私は逃げ場を失った。そうか、来るのか。だったら俺は友だちの下宿に転がり込んで寝るか。おう、そうだ。金がいる。バイトしなくちゃ。

彼女が福岡に来る日、私は博多駅(福岡の国鉄=現JRの玄関は博多駅である)まで迎えに出向いた。
しかし、だ。

「俺、彼女の顔を覚えてるか? 駅で出会っても相手に気が付かなかったらどうする?」

が、逃げ場をなくした私は迎えに行くしかないのである。

ホッとしたのは、改札から出て来る女性を見て、

「あ、アレじゃなかったか?」

と気が付いたことだ。そうか、こんな顔をした女性だったか。

彼女は5日間、私の部屋に滞在した。福岡市内を案内し、焼き鳥を食べ、博多ラーメンをすすり、太宰府天満宮にも行った。
2日もすると、またまた不安になった。この日のためにアルバイトで貯めた金が、ほとんど底をついたのである。見栄をはって学生としては豪華すぎる食事をしたためか?

「困ったな。どうしよう? 金がないから帰ってくれというか?」

そんな思いを抱えながら下宿のトイレを出、部屋に戻って机の上に置いた財布を取り上げた。あといくら残ってたっけ。
中を見て、

「えっ!」

と驚いた。彼女が泥棒で、金が減っていたのではない。逆に増えていたのである。

「これ、金が増えてるんだけど、なにかした?」

「机に上にあったから中身を覗いたら、あんまりなかったんで足しておいたの」

こうして彼女は5日間、私と過ごした。そして5日目、彼女を博多駅まで送っていった時は、なぜか

「2人は結婚する」

ことになっていた。まさに電撃婚である。

「俺はこれから大牟田に帰って両親に話す。君も横浜でそうしなさい」

なぜそんなことになったのか。いまでも不思議である。念の為に書いておくと、まだこの時、2人は男と女の関係にはなっていない。結婚するという約束が先にまとまったのである。あれは結婚してからするもの、という旧来のルールを厳守したわけだ。。
財布の金が増えているのを見て、私が彼女に好感を持ったことは確かである。しかし、その程度で結婚にまで一直線に突き進むか?

田舎育ちの私が、都会育ちの女の幻影にのぼせ上がったか? いや、いま思えば、福岡と横浜、という距離が最大の原因だと思う。会いたい時に会える距離なら、恋愛関係に進むことはあっても、すぐにでも結婚しようという話にはならなかったはずだ。そして、その恋愛が実れば2人は夫婦になったろうし、途中で破綻すれば他人同士に戻っていたはずである。
遠距離が2人を近づけた。人生とは、ほんのちょっとしたことが大きな結果をもたらすものである。

それからは忙しかった。横浜まで挨拶に行かねばならない。私は単身、横浜に乗り込んだ。持っている中で一番まともな服を身にまとった。上はセーター、下はGパンである。

「お前、そんな格好で相手の両親に挨拶に行ったの?!」

とおっしゃるかもしれないが、私はそれしか持っていなかった。いいではないか、Gパンはちゃんと洗濯したし。

横浜の両親のうち、母親はむくれて私と顔をあわせるの避けた。当時私は大学の3年になったばかり。父親は

「まあ、そう焦らずに、卒業するのを待ってもいいんじゃないか?」

といったが、なぜか2人は

「すぐ」

に拘った。

「生活費はアルバイトで稼ぎます」

「私も勤めに出て共稼ぎするから」

私が親の立場だったら、目の前にいる2人を殴り倒したことだろう。

「お前ら、世の中を嘗めてるのか? そんな甘い考えで所帯が持てると思ってるのか?」

いや、私だって暮らしのことは考えていたのである。大学を卒業しさえすれば、そこそこの会社に就職できるはずだ。もし就職がうまく行かなかったら、あの運送会社に戻ってトラックの運転手になったっていい。女房、子どもを食わせる金ぐらい、何とかして稼ぎ出す根性は持っているぜ!

とりあえずの挨拶を済ませると、正式な挨拶がいる。親の出番である。ところが我が家では父親は寝たきりで母は家を離れられない。やむなく、母方の叔父に同行を頼んだ。叔父と2人、福岡の魚市場で叔父の親族が仕入れてくれたという大きな鯛をひっさげて夜行寝台列車に乗り込み、横浜に向かった。

外堀は埋まった。そんな時、ふと

「結婚式って、仲人というのが必要なんじゃなかったっけ?」

という思いが浮かんだ。世の中のことはあまり知らないが、仲人とはあの結婚式で新郎新婦を紹介し、

「えー、新郎の大道君は私の新聞販売店で長年新聞少年として働いてく入れた真面目な青年です。優秀な成績で大学に進み……」

などと蜂蜜と砂糖とミルクをたっぷりまぶして中身が見えなくなる挨拶をする人である。
その仲人というのは社会的地位が高い人にお願いするのではなかったか? ふむ、俺が知ってるエライ人って、誰だ?

普通なら、折角大学生をやっているのだ。

「あの教授に頼もう」

という知恵が出たはずである。ところが私は、どうも普通ではないらしい。教授の顔など思い浮かべもしなかった。

「そうだ飛永さんならいいんじゃないか?」

飛永さん。前に書いたように大牟田の朝日新聞販売店主である。そして、大牟田商工会議所の副会頭でもある。私が知る中で最も光り輝く肩書きの持ち主である。

そう決めた。後にいまの妻女殿になる彼女が福岡に来た機会に、2人で飛永さんを尋ねた。

「私たちの仲人をしていただけませんか?」

いかがであろう。私はまるで見えない手に操られているかのように、再び朝日新聞に戻ってきた。ここまで来たら、朝日新聞記者まではもう一歩! とお考えになるかもしれない。

しかし、世の中とはそれほど単純ではない。何しろ当時の私は、ひたすら弁護士を目指していたのである。仲人は朝日新聞販売店主の飛永さんにお願いするが、彼は販売店主ではあるが、朝日新聞社の人ではない。

まさか、仲人の依頼が私と朝日新聞を結びつけることになるとは、考えもしなかったのである。