07.05
私と朝日新聞 津支局の20 津支局で起きたラッダイト運動
前にも書いたように、私が入社した頃の原稿用紙は、巻きが小さくなって輪転機にかからなくなった新聞用紙を葉書大に切りそろえ、上辺を糊で止めたものだった。これに1枚15字ずつ書く。最初は戸惑ったが、使い慣れると実によい。記事の執筆は時間との闘いである。大きな字で書き殴れば素早く書ける。そして60行の原稿を書けば60枚が積み重なる。支局長、デスクに提出する前にこの60枚をトントンとそろえていると厚みが指先に伝わり、
「仕事をした!」
という満足感、充実感も得られる。
その原稿用紙がある日、突然変わった。新しい原稿用紙は白さが増した上質紙に、1行15字のマス目が5行印刷されている。これから、原稿はこの新しい原稿用紙に書けという。
「冗談じゃない!」
支局員たちは沸騰した。
1枚15字だから、時間と戦えるのだ。こんな小さなマス目を小さな文字で埋めて行くのには時間がかかって仕方がない。締め切りに間に合わない原稿が頻出するぞ。それでもいいのか?
というのが、叛乱分子である支局員の言い分だった。私もその一員である。
いとはいえ、誰も両方の現降雨用紙で原稿を書いてみて、それぞれにかかる時間を計ってみたわけではない。だから明瞭な根拠がある主張ではなかった。ただ、何となく
「こんな小さなマス目に字を書くの?」
という漠然とした嫌悪感を持ったのが実体である。そして
「それに」
と理屈を付け加えた。
「記者が書く原稿は支局長、デスクが青ペンで直しを入れる。こんな小さな字で書いた原稿に直しを入れる場所がどこにある?」
古手の支局員を中心に、様々な意見具申をした。その結果、
「じゃあ、1行おきに、原稿用紙1枚に3行で書いてよろしい」
という話になった。会社側が譲歩したのである。
だが、支局員はこの譲歩を受け入れなかった。新しい原稿用紙をつぶそう。それが合い言葉になった。
原稿用紙を変える。いま思えば、それは技術の発展を利用して経営を合理化するのが会社の狙いだった。新しい技術とはFAXである。
それまでは各支局に、原稿をさん孔テープにするキーパンチャーを置かねば原稿を輪転機のある本社まで送れなかった。しかし、電話回線で原稿を送ることができるFAXを使えば、キーパンチャーは本社だけに置けばよい。各支局からFAXで原稿を送らせ、本社でさん孔テープにする。そうすればキーパンチャーの総数を減らすことができる。
FAXで送るのだから、原稿用紙1枚にできるだけ多くの文字が書かれていた方が合理的だ。送信時間も減らせるし、回線使用時間も減らせる。だから原稿用紙の変更に会社は踏み切ったのである。会社の方針には理があった。
そんなことまで考えた支局員は1人もいなかった。1枚3行でも納得せず、何とかこれまで通りの原稿用紙を使い続ける手はないかと支局員が策を探っている時、通信会議が開かれた。名古屋本社から編集局長、各部の部長が津までやって来て、三重県下の全記者が集まって会議を開く。その後は大宴会だ。年に1回ぐらいは偉いさんの顔を見せて地方記者の士気を鼓舞しようというのだろう。
それに、各部の部長にとっては人買いの機会でもあった。毎日の紙面を見ながら
「こいつはうちの部に引き抜きたい」
と人事評価をするのが部長の仕事の1つである。そいつの顔を見、話をして人柄を知り、最終決断をする。会議後の宴会は面接の時間でもあったのだと私は考える。もっとも、当時は何も考えずに酒を飲んだだけだが。
我々支局員はこの通信会議を好機と見た。編集局長まで来るのである。この場で一大論陣を張って新原稿用紙をつぶそうではないか。
その日が迫ると、数回にわたって作戦会議を開いた。
「まず、俺がこんな形で口火を切る。きっとこんな回答が出てくるから、そこで君の出番だ。これこれと主張する。その後は……」
綿密に作戦を立てた。そして当日。
会議は午後3時(4時だったかも)から支局2階の会議室で開かれた。三重県下には22〜3人の記者がいたから、総勢30人を超す大会議である。
一般的な議題が終わると、原稿用紙問題が取り上げられた。発議したのは支局員だったと思う。
予定では会議を2時間ほどで終え、午後6時からは市内の料亭に場所を変えての宴会だった。その予定がすっ飛んだ。支局員は打ち合わせ通り、新しい原稿用紙の使いにくさを、デメリットを、様々な角度で主張した。編集局長をはじめとした会社側は、一つ一つに答えねばならない。質疑のやりとりが激することもあった。
午後6時。議論は続いた。
午後7時。議論は伯仲した。
午後8時。議論に熱がこもった。
午後9時。どれほど主張しても、どんな解答が戻ってこようとお、双方は歩み寄らない。
午後10時。まだ議論が続く。
全員が宴会の場に移ったのは午後10時半、いや、11時だったか。そんな時間に始まった宴会が盛り上がるはずはない。つい先程まで激しい言葉をやりとりした者同士で酒が進むわけがない。
恐らく、支局長は管理責任を問われたはずである。君は支局員に会社の方針を納得させる努力をしたのか? 通信会議を、我々をつるし上げる場にしてしまった責任もとってもらうぞ!
私の想像でしかないが、会社とはそんな組織であるはずだ。
そして、恐らくそうなることがわかりながら、支局長は通信会議での議論を止めなかった。いや、最初は何とかまとめようとしたようだったが、やがて自分の力では止まらないと思い知ったのだろう。ほとんど無言で議論を聞いていた。
客観的に眺めれば、これは朝日新聞におけるラッダイト運動であった。19世紀初頭のイギリスで起きた機械打ち壊し運動である。技術革新に伴う新鋭機の導入は労働者の敵だ、と労働者が立ち上がり、導入されたばかりの機械を打ち壊したのだ。
が、技術の進歩にブレーキはかけられない。ラッダイト運動は間もなく終演した。新鋭機は次々に工場を埋めていき、近代資本主義は爛熟していく。
朝日新聞でも同じで、間もなく新原稿用紙に切り替わり、支局からキーパンチャーがいなくなった。つまり、私たち支局員の戦いは敗北で終わった。
しかし、といま思う。あの時の支局の盛り上がりは何だったのだろう?
新しい原稿用紙に切り替わっても、別に支障は出なかった。相変わらず原稿は締め切り時間までに処理されたし、いつしか小さなマス目にみんな慣れた。その後、原稿執筆にワープロが使われ、いまはパソコンで原稿を書かねば記事にならない。パソコンでの執筆は原稿用紙にボールペン、鉛筆で1文字づつ書くより遙かに楽である。技術革新はやっぱりいいことなのだ。新原稿用紙騒ぎでの正しさは、会社側にあったといわねばならない。
私は決して首謀者ではなかったが、それでも新しい原稿用紙は使いたくないとの論を張った記者の1人である。人間とは、暮らしや仕事の環境が変わり、それが自分の身に迫ると、トコトン保守的になる生き物なのか、とでも考えないと、あの時の自分が理解できない。
それとも、単に
「ええじゃないか、ええじゃないか、やっちまえ!」
とお祭り気分になっただけだったのか。
それにしても、あの時ラッダイト運動を起こしたのは、三重県下の記者だけだったのかな? ほかはみんな、会社の新方針に唯々諾々と従ったのか?
そう、あの時の騒ぎで誇ることがあるとすれば、我々は会社の方針に反抗したのである。会社人間になりきってはいなかった。それだけは胸を張ってもいいのではないかと考える私である。