07.17
私と朝日新聞 岐阜支局の11 写真が……。
忘れられない選挙報道がある。1979年春の岐阜県恵那郡上矢作町(現在は恵那市上矢作町)の町長選挙である。
選挙になったのは、前町長が2月に急死したためだった。これを受けて、「保革連合」対「保守」の争いとなった。「保守」対「革新」の激突なら珍しくもない。だが、「保革連合」対「保守」とは。いったいこの町で何が起きているのか? 選挙戦をルポしてみようと思った。
上矢作町は岐阜県の東南端で愛知県、長野県と接している。当時の人口は約3800人。林業が町の主要産業である。
調べてみると、前町長は極めてユニークな人であったらしい。直接民主主義を目指していたともいわれ、1972年に町長になると、まず町立病院を手がける。そのごろ町には開業医が2人しかおらず、しかも2人とも70歳を超える高齢。前町長は
「町民の命と健康を守る」
ことから町政を始めたのだった。
それだけではない。建設にいたるプロセスも独特だった。まず建設委員会を作り、議員、区長会、財産区、老人クラブ、勤労者協議会などの代表を集める。あちこちの町立病院を視察する。
そして前町長は町内を歩き、町民の生の声を聴いた。
「夜中でも往診してくれる病院、医者が欲しい」
「町内でもお産ができるようにしてもらえんかなも」
町議会からは批判の声も出た。
「でっかいものを作るな。町財政が赤字になる」
「民医連の医者を連れてくるそうだが、アカい病院になる」
だが、押し切って病院を作った。町民が喜んだのはいうまでもない。
そんな町政を先頭に立って進めてきた前町長のあとを誰が継ぐのか? 前町長の基盤になっていた「民主町政を進める会」は保守と革新の寄り合い所帯だった。この会が押す元小学校教諭と、保守派の町議をバックにした元町議の一騎打ちである。面白そうだ。
岐阜市からは片道2〜3時間かかるところだった。朝早く岐阜を出て、取材を終えて支局に戻ったのはもう午後4時前後だったと思う。面白い話が聞けた。さあ、記事を書かねばならない。
朝日新聞は、本社といわれるところ行くと、記者は写真を撮らない。写真部があり、写真が必要な時は写真部に声をかける。しかし、支局に写真部はない。記者は自分で写真を撮り、現像、焼き付けをして写真を本社に電送する。
だから、支局に戻って最初にしなければならないのは写真の処理である。私はカメラからフィルムを取り出すと、暗室に向かった。フィルムの現像液が入ったタンクに手を突っ込む。4月だったが、冷え込んだ日だったのだろう。ヒヤッとするほど冷たい。
フィルム現像は現像液の温度と中に漬けておく時間が決め手だ。正確な記憶はないが、20℃で5,6分ではなかったか。しかし、手を突っ込んだ現像液は相当に冷えている。本当なら熱して温度を上げなければならないのだが、それは面倒だ。こちとら、記事も書かねばならないのだ。
「えーい、20分ぐらい放り込んでおいたらいいだろう」
私はフィルムを現像液タンクに放り込むと、記事を書き始めた。
20分たった。暗室に入り、現像タンクからフィルムを引き上げて定着液に投げ込む。引き上げて水洗いをし、処理が終わったフィルムを見て、私は青くなった。写っていないのである。上矢作村で撮ったはずの映像が、フィルムにないのである!
目をこららして見た。いや、像がないのではない。薄いのだ。薄っらと陽炎のように像はある。あちゃー、失敗した! 現像液の温度が低すぎて、現像が十分進まなかったのである。
ルポ記事に写真は必須だ。だが、いまからもう一度上矢作村まで行ったところで現地は夜。選挙写真など撮れはしない。撮れたとしても、支局まで帰る時間を考えれば締め切りには絶対に間に合わない。
どうする?
もう一度、ほぼ真っ白のフィルムを点検した。使えるコマはないか?
あった、1枚だけあった。1枚だけ、やや濃いめに映像があるコマがあった。これに頼るしかない。
しかし、やや濃いめ、とはいえ、ちゃんと現像したフィルムに比べれば遙かに薄い。私は一番「硬い」印画紙を取り出した。確か4号である。印画紙は数字が増えればコントラストが強まるのである。これに頼るしかない。
限りなく薄い画像しか載っていないフィルムである。だから、引き伸ばし機で光を当てる時間も最少にした。「1、2、3」と数えながらあてるところを、「1」までもいかない、「い」だけにしたのである。頼む、写真になってくれ!
何枚焼き付けたのかは忘れた。やっと1枚だけ、なんとか使えそうな写真ができた。何とかなった。
いま見ると、たすきを掛けた候補者が、1人の町民に頭を下げているシーンである。2人しかいない候補者の1人の写真を紙面に掲載する。
「朝日新聞が贔屓をした!」
といわれかねない写真だが、とにかく、使えるコマがこれしかなかったのだ。幸い、そんなクレームは来なかったが……。
そう、写真についてのクレームは来なかったが、記事についてのクレームは来た。
「朝日新聞は保革連合に肩入れするのか!」
というクレームである。そりゃあ、現地で取材した限り、私が町民なら保革連合の候補者に1票を投じるだろう。しかし、記事でそんな贔屓をした覚えはない。
クレーマーはいった。
「保革連合候補の事務所に、自民党の金子蔵相、渡辺代議士の『祈必勝』の檄文があったとあるが、そんなはずはない。保守の分裂をねらった選挙妨害だ!」
私は、その檄文をこの目で見たから記事にした。保革連合だから、自民党の代議士からも檄文が来るのかと思いながら書いた。それをクレーマーは
『ありえない」
という。
「だったら、写真を撮ってあるので支局まで来て下さい。お見せします」
と突き放したら、クレームは止んだ。私はそんな写真は撮ってはいない。嘘も方便ではある。
しかし、あの時
「分かった。これから行くわ」
といわれたら、私はどうしていたのだろう?
若き日の、ちょっとおっかない想い出である。